6/10 麻賀多神社まで歩く 8キロ走破の巡礼に行ってきた(1)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

昨日6月10日は 今からちょうど69年前の1944年に千葉県成田市の「麻賀多(マカタ)神社」の敷地内にある「天日津久神社」にて、ある不思議な出来事が起った日。

当時画家であった岡本天明(1897年~1963年)が誰もいない社務所で休んでいたところ、突然勝手に右手が動き出し、すらすらと文字のようなものを書かされました。
これがあの有名な「日月神示」が生まれた瞬間です。

わたしが「日月神示」の存在をしったのは3・11の後。
思い起こしてみればあれからスピリチュアル遍歴(?)が始まった。
わたしの人生、「日月神示」にかなり影響を受けたような気がするの・・。

なんちゃって。
ただ面白そうなところをウロウロさせて頂いてるだけなんですが。

ということで「岡本天明伝」の著者、黒川柚月氏主催、天明さんの足取りを辿るツアーに参加してきました。
昭和十九年六月十日、岡本天明が下総松崎駅から麻賀多神社まで歩いたルートを再現して、歩いて麻賀多神社を参拝し、古を偲ぶ巡礼をするとのこと。

これは是非参加せねばっ。
いつも言うようだけど、おばさんはお金はないけど暇はあるの。

早起きをして下総松崎駅に9時22分に到着。
いや、遠いわ。
3回も乗り換えあるし。
乗り間違えたらどうしようとドキドキしちゃったよ。

やっとの思いで下総松崎駅に到着し、小さな駅のホームに降りると数人の男女がいました。

          下総松崎駅

諏訪から駆け付けた写真家、ヒーラー、日月神示の勉強会をされている方、会社の役員、主婦などいろいろな方が参加されていました。

さっそく岡本天明さんが下総松崎駅から麻賀多神社まで歩いたルートを自己紹介やらおしゃべりをしながら歩く。
田んぼの広がる白い田舎道。

なんだか懐かしい稲の匂いをかいだり鳥の囀りを聞きながら、天明さんはどんな気持ちでここを歩いたのだろうか、と思いを馳せる。
                田圃道

『日月神示(ひふみ神示、ひつく神示とも呼ばれる)とは元々、大本に入信していた画家の岡本天明氏が、自動書記によって書き記した神示と言われ、元々の発祥は昭和19年4月18日に、岡本氏が審神を勤めたフーチ(中国に伝わるT字型の機具を、二人で持ち、降霊後にそのT字の棒を使って下の砂に、文字を書き表すもの)を使う、実験会まで溯る。この実験会では、下に敷いた砂に「ひつく」或いは「天之日月神」といった神名がでるのみで、その他の成果は見られなかった。

しかしこの実験会の後に、参加者の一人が千葉県印旛群公津村台方の麻賀多神社の末社に「天之日津久神社」というのがあるのを発見し、天明氏に連絡してきた。
 一方の天明氏は「酒を飲ましてやる」という別の友人との約束があった為に、奇遇にも千葉方面への乗車切符を購入していた(この当時は切符一つ買うのに、2日もかかったらしい)

 しかし急に先方が都合が悪い、という事でキャンセルされてしまったのだが、丁度その行き先の近所に天之日津久神社があるのが判り、とにかく降霊会での御礼がてら、その神社まで詣でてみる事にした。

 当日、実際に着いて休憩を取って居ると、そこで神懸かり状態となり、生業が画家のため持参していた絵筆を使い、紙に意味の解らないものを書き殴ったのが、最初といわれている。』

だからここを歩いていた時の天明さんはその後の自分の運命も知らず、日常を離れてただ美味しいお酒のことやおつまみのことなんかを考えながら楽しく散歩していたと思われる。
知らないけど。

人生ってホント、分からない。
まさか自分がWikiに載っちゃうような、研究されちゃうような人間になるなんて思わないよね。
69年後に、ぼんやり散歩していた自分のことを考えながら大の大人が10人もぞろぞろ歩くなんて、その時の天明さんが知ったらびっくりだよね。
(ってその一人がわたしなんですが)

説明して頂きながら、二ノ宮神社、北須賀の小川家、薬師寺(麻賀多神社別当)に寄り、楽しく歩く。
さすが先達がいると同じ風景を見ても全然違うね。
                二ノ宮神社

標識痲賀多神社

天明さんの息遣いが聞こえてくるような感じ。

佐倉宗吾旧宅(麻賀多神社の七井の一つがある)では93歳のおじいさんがお話を聴かせてくれました。

                佐倉宗吾旧宅

『佐倉宗吾(本名・木内惣五郎)様は、承応2年12月に4代将軍家綱公に直訴を行いました。その頃、佐倉藩は、大変な飢饉に襲われていました。しかし当時の藩主は年貢を緩めることもなく、農民の実情を無視した過酷な検見が行われ、農民は餓死寸前の状態にありました。

 たまりかねた城下の名主達が集まって、木内惣五郎様他6人で、将軍お側用人である久世大和守様に直訴を申し出たのですが、聞き届けられませんでした。
やむなく惣五郎様は1人で4代将軍家綱公へ直訴を行う決心をしたのです。
当時の直訴の罪は重く、家族にまで刑罰が及びました。家族の身を案じた惣五郎様は直訴の前に奥様を離縁、子供達を勘当しようとしますが、奥様は惣五郎様の考えを聞き入れず、運命を共にする覚悟で離縁を拒みました。

 雪の降る中、惣五郎様は家族に別れを告げ、1人江戸へ向かいました。そして上野寛永寺で墓参りに来た4代将軍家綱公の駕籠を待ち受け、直訴を行なったのです。

 惣五郎様はその場で取り押さえられましたが、家綱公は墓参りが終わった後、惣五郎様からの訴状の内容を確認し、佐倉藩の状況を調べました。そして佐倉藩の深刻な状況を知り、3年間の減免を行いました。飢饉に苦しんでいた農民は救われたのです。

 しかし、直訴の罪で惣五郎様は、はりつけになり、子供達までが打ち首になってしまいました。のちに、佐倉藩主堀田正亮公は、1752年の百回忌のときに、当時の失政に胸を痛め、惣五郎様に「宗吾道閑居士」の法号を授けました。それ以来、惣五郎様は宗吾様と呼ばれるようになったのです。』

なんと宗吾の目の前で子供たちが処刑されたとのこと。
うぅー、立派なヒトの家族は大変だよう。

 調べていたら「ベロだしチョンマ」についてのこんな記述が。

『「ベロだしチョンマ」には、宗吾様と共に処刑された子供達の、とても悲しい話しが伝えられているのです。

処刑場で、怖がって泣く幼い妹のウメに兄の長松が「こわくねえぞ!アンちゃんを見ろ!」と言って、眉毛を下げて舌をペロっと出したのです。
長松は12歳、ウメはまだ三歳でした。
長松は普段から妹のウメが泣くと、いつもこうしてベロを出して笑わせてきたのです。長松はベロを出したまま、槍に突かれて死にました。見ていた村人達は、泣きながら笑い、笑いながら泣いたといいます。』

泣ける・・。
「ベロだしチョンマ」ってそんな話だったのね。
切ない。そして古の偉人とそのご家族の冥福を祈る。

実はこのおじいさん、天明さんと何回かお会いしたことがあるんだとか。
そっかぁ、天明さんもこの話、どんな気持ちで聞いたのかな。

そしてもしかしたらこういう義人と呼ばれる人を生む土壌が、日月神事を下ろされるもとになったのかも、と思う。

お線香を上げさせて頂き再び出発。
田舎らしい曲がりくねった道を暫く歩いていくと、麻賀多神社の裏手の天明さんが住んでいた場所があった。
                 跡天明居住

そうか、天明さん、ここに住んでいたんだね。

今は見る影もなく荒れ果てていた。
不思議なもので、69年前にタイムスリップしたかのごとく、活字の上の人物だった天明さんが、まるで親戚のおじさんのように立体的になってくる。

そうしてやっと10人で麻賀多神社に到着したのでした。

つづく






スポンサーサイト

comment

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

マキおかん

Author:マキおかん
気が付いたらキャンプ場をやっていたマキおかんです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR