伊勢、京都、出雲に行ってきた!(22)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

出雲大社に早朝参拝に行ったわたし達。
本殿に参拝し、まだ時間があるのでふらふらと右手の道に出てみる。

すると橋の向こうに何やら由緒正しい雰囲気の門が。
恐る恐る入ってみると御三社(荒神社、天穂日命社、稲荷社)がある。

                 北島国造館 社

大木が立ち並び地面は苔むし、湿った空気が漂っている。
ここがどういう所か分からないが、とにかく参拝させて頂く。

社を抜けると、滝や橋のある立派な日本庭園がある。
さっきまでいた出雲大社の境内とは明らかに違う雰囲気。
橋の向こうにある天満宮は、どこか人を寄せ付けないような威厳を放っている。

小さな橋を渡り、滝の前に鎮座する天満宮に向かい、磐笛を奏上させて頂く。
この橋を超える時、正に結界を超える感じがしたのは気のせいか?

それにしてもここは一体?
正門には「出雲教」の大きな看板が。 

                北島国造館


出雲教(いずもきょう)
『出雲教(いずもきょう)は、出雲国造・北島家の主宰する神道教団である。
大国主命を主祭神として、天穂日命を教祖、造化三神・天照大神・産土神を併神とする。初代教主は北島脩好であり、以降、北島家の当主が教主を継いでいる。
出雲教は、千家家の主宰する出雲大社教と同様に、民間の出雲信仰を基盤として広がっているが、信者数などその規模は大社教には遠く及ばない。また大社教は教派神道として一派独立していたが、出雲教は神道大教に所属する一教会としての扱いであった。』

わたし達の世代は、聞き覚えのない「〇〇教」というと「何やら怪しい新興宗教なのでは?」と身構えてしまう癖がついているのだが、出雲教は本当に由緒正しい宗派だったんですね。

どうやらここは、出雲国北島国造館という所で、同じ出雲大社の敷地にありながら、独立しているらしい。

『 千家家と北島家は南北朝時代1343年54代国造清孝の後、その子の兄弟で国造家は二分し、以後は同格でした。明治15年北島家76代が出雲教として独立しました。出雲教は神道の宗教集団で出雲大社は神社で、その在り方をわけ、出雲大社をお護りしているそうです。』

要するに、出雲大社の宮司の千家家と北島家は、かつては同じ兄弟から別れ同格だったのが、今は別の管理下にあり、現在の出雲大社は出雲大社教の千家家の独占状態だということらしい。
千家尊福さん、政治力ありそうだもんね。

こういうことって、庶民にはありがちなことだと思うけど、宗教の中でも結構ある話なのね。
長い歴史の中で、お金や名誉や政治力が絡み合って表には見えないいろいろな事があったに違いない、と想像するわたし。

そろそろ朝食の時間が近づいたので帰ろうとすると、向こうから来たおばさんが突然親しげに声をかけてきた。

だ、誰?知り合いなんているはずはないんだけど。

よく見てみると、何と昨日蕎麦屋の「かねや」さんに行く時、道を教えてくれた上品そうなおばさんだった。
母と息子の旅行客が珍しかったので、すぐわたし達と分かったらしい。

あの時の上品そうなおば様は、今は手拭いをほっかむりしてモンペを穿いている。
北島国造館の敷地の銀杏を採りに来たとのこと。

「かねやさんのお蕎麦はどうでした?」と聞かれたので「思ったより量が少なかったのですが、出雲蕎麦はそういうものなんですね。」と答えた。
すると「そんなことないですっ。ホントにかねやさんは量が少ないんですよ。だから私はいつも荒木屋さんから頼むんですけどね。全く何でかねやさんに皆行くんだか。」と昨日の奥歯に物が挟まった口ぶりは何処へやら。かなりはっきり仰る。

昨日「さすが品のいい出雲の旧家の方は言い方もお上品で、悪し様には言わないのね。」と思ったけど、お近づきになるとそうでもないらしいことが判明。

出雲教の背景も何も知らなかったわたしが「ここは出雲教という所なんですね。」と聞いてみると「この辺の人は出雲大社ではなく、ここで結婚式をやります。ここはスゴイ歴史のあるところなんですよ。そしてここの御殿様はホント、立派な方で・・。」と、いろいろ教えて下さる。

御殿様!
この時代にあって、この言葉が日常に生きていたとは。

ちょっと感動。
ちなみに千家も北島も両家とも明治期に男爵の家柄になったらしいが、それどころか、どちらも先祖をたどっていくと、天穂日命(あめのほひのみこと)という、天照大御神のお子さんにいきつくらしい。
神話の時代から家系が続いてるんだから、正しく「御殿様」と呼ばれるにふさわしい家系なんですね。

出雲にはそういった家系が他にも残っているらしい。
凄いぞ、出雲。

それはともかく。

出雲大社は威風堂々とした佇まいで「おおやしろ」と呼ぶにふさわしく、大きく立派で全国の神々が集まる神社。
が、小規模ながら静かで凛とした北島国造館にいると、出雲におわす神々の息遣いまで感じられそうで、時間が千年単位で巻き戻され、出雲が太古から神の地であることが実感できる。

眩暈にも似た不思議な感覚に囚われながら、朝食に間に合うようにおば様に別れを告げたわたし達なのでした。

つづく





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伊勢、京都、出雲に行ってきた!(21)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

「世界が破滅する最期の景色」と言われても納得してしまうような見事な夕日を後に、日御碕灯台から「竹野屋」に急ぐわたし達。
今は目よりお腹を満たしたい。

予定より随分遅くなってしまったので、一応電話を入れておく。
「竹野屋」さんに着いたのは6時40分くらい。
部屋に案内して頂き、大急ぎで入浴する。
温泉ではないが、清潔感のあるお風呂は過酷な旅でへとへとになった体と心を優しく解きほぐしてくれる。

7時に食事をお願いしていたので、急いで食堂へ。
ベテランのおばちゃんの御給仕で、夕食を戴く。

                       竹野屋 夕食


とにかくご飯が美味しい。
島根の米は昼夜の激しい寒暖差によって、極上の旨味が引き出されるらしい。
どっしりとした粘りがあり、米粒の旨味が口いっぱいに広がる。

あー、満足。
実は「竹野屋」さんは、今回の旅で唯一の高級旅館(わたし達にとっては)だからすっごく楽しみにしていたの。
深夜バスで背中を丸めて過ごし、水洗トイレの水が流れる音の響く部屋で空腹を抱えていたんだから、無理はあるまい。

部屋に帰ると、すでに布団が敷いてあった。
あー、ふかふかの寝心地の良さそうな布団。
一昨日の湿った化繊の布団とは大違い。

その夜、久しぶりに熟睡したわたしは、翌朝5時過ぎに目が覚めた。

これは出雲大社に早朝参拝に行かなければっ。

息子を起こし、二人で外に出てみると、出雲大社の門前町は朝焼けの光に包まれていた。
大鳥居をくぐり、思い切り空気を吸う。

この鳥居は、九州小倉の篤志家により、松の並木280本とともに寄進されたんだとか。
一個人の尽力で、大社周辺の景観が今のように整備されていたとは。
凄いですね、小倉の篤志家の方。
尊敬します。

ふと見ると右手に誰かの彫像が見える。
まだ朝食まで時間もあるので、参道から外れ、芝生を横切って見に行ってみる。

青銅色のそれは千家尊福卿像だった。

千家尊福(せんげ たかとみ)
『出雲大社宮司である出雲国造家に生まれたが、宮司から離れ「貴族院議員」、「埼玉・静岡県知事」、「東京府知事」、「司法大臣」を歴任した宗教家であり政治家です。男爵の爵位も賜っています。後に「教派神道出雲大社教」を創始。』

大晦日から元旦にかけて除夜の鐘を聞いて年が明けた時によく歌われる「一月一日」という曲。
この千家尊福さんが作詞されたんですね。

         【 「一月一日」 】
          年の始めの 例(ためし)とて
          終りなき世の めでたさを
          松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
          祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ


むう。
氣品があり、にぎにぎしく新年を寿ぐ日の本の民の歌、といった風情が素晴らしい。
さすが男爵が作られた歌です。
作者どころか題も知らなかったけど、わたし、この歌好きです。

今から70年ほど前、子供達は元旦から学校に登校し、恒例行事として校庭でこの歌を歌っていた。
それで「一月一日」という題名になったんだそう。

この千家尊福に関して、興味深い話がある。
『千家尊福は恐れ多くも明治天皇に借金の申し込みをし、断られていたことです。
借金は認めてもらえませんでしたが、出雲大社教の立教を特別に認めてもらいました。
また、千家尊福の三男がある女性との結婚を反対され、列車に飛び込んで心中したということです。
そして、この三男の名前が家系図から抹消されているらしいのですが、本当のところははっきりしていません。』

明治天皇に借金!
もしこれが事実なら、スゴイ話。
日本史上、千家家は天皇家に次いで二番目に古い祖先の系統をもつ家柄なのだそうだけど、世間的には雲の上の存在のような尊福さんも色々悩みがあったんだろうなぁ、としみじみとした氣持ちになる。

ふと横を見ると、何やら石碑が立っている。
なになに?

                      出雲大社 大本


「大本教祖火の御用記念碑」と刻まれている。

大本教祖火の御用?
一瞬鳥肌が立つ。

実は大本教の「お」の字も知らなかったわたしは3・11をきっかけに日月神示を知り、麻賀多神社に行き、大本教の出口王仁三郎について調べ始めた。
今年になって「岡本天明伝」の著者のKさんと知り合い、この夏Kさんの「甲斐の御用」のお手伝いをさせて頂いたばかり。

何故こんな所にこれが?
それより何より何故わたしはここに来ちゃったの?

もし鳥居をくぐってそのまま真っ直ぐに進んでいたら、ここには来なかった。
こ、これは偶然の出来事のようで、実は必然だったりなんかしたりして?

それはともかく。

出口王仁三郎は有栖川宮熾仁親王(皇女和宮の婚約者であり、明治新政府の初代総裁。明治22年において皇位継承第一位)のご落胤というまことしやかな噂がある。
明治天皇の皇后一粂美子(のちの昭憲皇太后)の姪にあたる鶴殿ちかこが熾仁親王の落胤との噂を聞き、その真偽を確かめに行き、王仁三郎が熾仁親王に生き写しであることに驚き即日入信した、とか、王仁三郎本人が裁判所で証言した、などの話は枚挙に暇がない。

本当かどうか、わたしには知る由もない。
が、その中で氣になるのは、大本がマイナー集団だった時代に、千家尊福が門外不出の「出雲のご神火」を氣前良く下げ渡しているということ。

うーん、普通に考えて、そんなことってありますか?

「大本」の奥宮がこの出雲大神宮であり、毎年ここで大本教が神様への献茶会が催されているとのこと。
出雲大社と大本の関係、かなり深いものがあるのは間違いないらしい。

とにかく、全くの門外漢のわたし。
何かに導かれてここに来させて頂いたのだとしたら、ホント、有難いことです。

が、それってちょっとコワいことかもしれない。
だって、いつも見られている、ということだから。
あんな時も、こんな時も、そんな時も、上からじっと見られていると思うと、ちと困る。

昔の日本人には「常にお天道様が見ていらっしゃる」という意識があったと思う。

「天知る、地知る、我知る、人知る」。
肝に銘じて、これからの老後を生きていこう、と誓うわたしなのでした。

つづく

伊勢、京都、出雲に行ってきた!(20)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

足早に猪目洞窟を後にしたわたし達。
沢山のカーブとトンネルを通り過ぎると、美しい日本海が広がり海のパノラマを見ることができる。

標識を探しながら進んでいくと、緑の山あいから朱色に輝く神社が見えてきた。
日本海の青と松林の緑を背景に「朱の神殿」は鮮やかさを際立たせ、その姿はさながら竜宮城のよう。
日御碕神社は海辺の町の中に場違いに思えるほどの華やかな佇まいで迎えてくれた。

日御碕神社
『出雲国風土記』に「美佐伎社」と記される古社。
出雲にあって、伊勢神宮と並ぶ神格を与えられた、全国でも天照大御神と素戔嗚尊を祀っている唯一の社。
神社は下の宮「日沈宮(ひしずみのみや)」と上の宮「神の宮」という上下二社からなり、両本社を総称して『日御碕神社』と呼びます。
「日沈宮」は【伊勢大神宮は日の本の昼の守り、出雲の日御碕清江の浜に日沈宮を建て日の本の夜を守らん】 (伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守る」) との神勅により祀ったのが始まりと言われています。』

日の本の夜を守らん!

そうですか。
この日本海に面した地で日本の夜を守って下さっていたんですね。
ありがとうございます。

実はいつものように下調べをしないで行ったので、「日沈宮」「神の宮」上下二社からなっていたのを知らなかったわたし。
やけにたくさんの御社があると思っていたらこういうことだったんですね。

丹塗り(にぬり)の鮮やかな色彩を放っている楼門をくぐると、正面に「日沈宮」。
右手階段の上に、「神の宮」が鎮座している。

日御碕神社 楼門
                    

「日沈宮」の拝殿で「国家安泰」「国民の守護」を祈念する。
ふと気が付くと息子がいない。

息子を探しながら楼門の方に戻り、何気なく上を見上げると、空から何かが降ってきた。
ひらっひらっと左右にスウィングしながら、白い物体が落ちてきたと思うと、楼門の右手の門客人神社の階段の正面にすっと留まった。

訝しんで見てみると、白い20センチ程の一枚の鳥の羽。
周りに参拝客はいるが、誰も気がついていない。
辺りを見回してもそれらしき鳥はいない。

不思議な気持ちになり、丁度近くに来た息子を引っ張って行き、その羽を見せた。

何だろう?
これは何か意味が?

はっ、いかん、いかん。
こんな風に意味ありげに考えてしまうから、子供たちに「全くこれだからスピ系のおばさんは。」と言われちゃうんだよ。

気を取り直して、再び周囲に目をやる。
朱の社殿が鮮やかに映え、荘厳な雰囲気を漂わせている。

  日御碕神社 日沈宮
                         

息子が「上の方にある神社にも行こう。」と言うが、朝から韓竈神社、鰐淵寺、猪目洞窟と駆けずり回った上に、ここまで運転しているわたしはもうへとへと。
上下二社からなっているのを知らないわたしは、階段を上るのも億劫なので「もう拝殿をお参りしたからいいや。一人で行って来て。」と言うと、息子は一人で階段を駆け上がって行った。

手持無沙汰にぼんやりと息子を待つ。
が、待てど暮らせど帰ってこない。

ぬう。
母に対する気遣いのない奴め。

イラッとしながら、他にやることもないので上の方にある神社(「神の宮」)に行ってみる。
(今にして思えば、ホント、行っておいて良かった・・)


小さな摂社・荒魂神社、を回っていると、やっと息子と遭遇。
「そんなに気遣いがないと、彼女ができても嫌われるよ。」と嫌味を言いながら、さっきの門客人神社に戻ってみると、さっきの白い羽根がない。
周りを見回しても、どこにもないので。狐につままれたような気持ちになる。
息子に「さっきここに羽、あったよね。」と聞くと「確かにあった。」との返事。

あー、ボケてたんじゃなくてよかった。
それにしてもさっきの羽は一体なんだったんだろう。

社務所の横から外に出ると、穏やかな漁村の風景が広がっている。
海に向かって歩いていくと、港があり「日沈宮」元地である経島(ふみしま)がある。
経島はその形状が「経典」を積み重ねたように見えるためその名が付いたと伝えられている。

『昔、日沈の宮はアメノフキネノミコトが経島にいた時、アマテラスオオミカミが降臨し、「吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん。汝速かに吾を祀れ」との勅命を受け経島と言う島に鎮座しました。
スサノヲノミコトが根の国(黄泉国)より熊成の峰に上り、「私の神魂はこの柏葉が止まった所に住もう」と、柏葉をなげると風に舞い今の日御碕神社の背後の「隠ヶ丘」に止まったため神魂の鎮まるところとして日御碕神社の神の宮に祀られました』

島には鳥居があり、岩伝いに渡って行けそうに見える。
岩場でうろうろしていたら、そばにいた漁師の方に注意された。

どうやら経島は日御碕神社の神域として神職以外の一般の立入りは禁止されていて、年に一度の例祭の時のみ、宮司だけがその島に舟で渡ることができるらしい。

そ、それは失礼致しました。

間もなく日が沈む時間が迫っている。
港から日御碕灯台に行く細い道があり、地元の車が通って行ったので、同じように急な坂を上ってみると。

おおー。
雄大な日本海に海を染めながら水平線に沈んで行く太陽は神々しさが漂う。
天と地と海が織り成す壮大なパノラマはまさに神ご降臨といった雰囲気に満ちている。

日御碕神社 夕日

もし「世界が破滅する最期の景色」と言われても納得してしまうような見事な夕日。
怖いような美しさ、というものがある、と実感。

日が沈んだ後、日御碕灯台に急ぐ。

この世のものとは思えないくらいの崇高な美しさ。
観光客が皆呆然と景色を見つめている。

日御碕灯台 夕日

「御来光の道」があるという。
千葉・九十九里浜付近にある「玉前神社」と出雲の「日御碕神社」を結ぶ 線を引くと、いわゆる聖地・パワースポットがそのライン上に浮かび上がるというのも、あながち嘘ではないのではないか、と思えてくる。

多分この景色をわたしは一生覚えているだろう。
人の身である卑小な自分が、とてつもなく神聖で崇高な自然を前にした時の震えるような畏れと共に。

・・・
それにしてもあの羽は?



つづく


伊勢、京都、出雲に行ってきた!(19)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

濡れたお尻で車を汚さないため、プチプチを敷いた車を運転して日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)を目指し、海岸線を走らせるわたし達。
どうやら途中に猪目洞窟(いのめどうくつ)という所があるらしい。

猪目洞窟
『猪目洞窟は出雲国風土記に「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり(夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ。ここは黄泉の穴である)」と記されている。』

夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ?
ごわっ!

でも、行ってみたいっ!!

恐いもの見たさで、岸壁の道を車で走る。
「この先行き止まり」とか「落石注意」だとか「倒木注意」という看板が幾度も目に付く。
標識を気にしながら走らせていると、トンネルの手前にその洞窟はあった。

                 猪目洞窟


コンクリートの橋脚が立っている陰に、大きな穴が開いている。
雑然とした船着場の横に小さな祠がポツンとあり、その先は狭く暗くなっていて、ちょっとコワい。
わたしは3メートルほど行ってみたが、奥をのぞくなどとても恐くてできそうもない。
だって、門外不出、見たことを人に話してもいけないし、洞窟の夢を見た人は命がない…とまで語られているんですよ?
(ブログに書いてるけど。でも話してないもん。書いてるだけだもん。)

気のせいか禍々しい気が充満しているような・・。(完全に気のせいです。)

息子はビビりながらも、奥へ入って行こうとするが、わたしが必死に止めた。
だってこいつがもし洞窟の夢を見てしまって命がなくなったら、誰がわたしの老後を見てくれるっていうの?
しかも「息子は夢で猪目洞窟を見たから死にました。」なんて人様に言える訳ないじゃないですかぁ!

調べてみると、ここは昭和23年に漁船の船置き場として拡張工事をした際、堆積土を取り除いたときに発見された洞窟で、その堆積土から遺物が発見されたらしい。
弥生時代から古墳時代にかけての人骨が十数体。
腕には貝和がはめられ、稲籾入りの須恵器などの副葬品が埋められており、また古代の生活が分かる木器、貝類、獣骨、灰なども見つかっているそう。
その遺物は現在出雲市大社町の公民館に保管されているという。

洞窟は幅30m、奥行きは30m。奥へ行くと天井が低くなりそこから先へは進めなくなるらしい。
何だか気持ちが落ち着かなくなり、早々に立ち去ろうとすると、漁師らしい方がこちらを興味深げに見ているのに気が付いた。
お話を伺ってみると、ここに遠くから観光客が来るのが珍しいらしい。

「ここは昔から船を置いたりして、ゴミがいっぱいあったんだ。村の人間がここを工事してたらゴミが出てきたから捨ててたんだけど、骨が出てきたので調べたら遺跡だったからみんなびっくりしたんだ。
でもゴミだと思って結構たくさん捨てた後だったから。あれが残ってたら凄かったかもな。」
なんて仰る。

す、捨てちゃったの?
結構たくさん?

ま、仕方ないね。
ゴミに見えちゃったんだもんね。
でももったいなかったね。

1700年前の女性の白骨も状態よく残っていたとのこと。
彼女の右腕には6個もの「ごぼうら貝の腕輪」がはめられていて、船の木枠のヒツギの中に大切に埋葬されていたことから、若い女性のシャーマンだったのではないか、と推測されているらしい。

ここは肉体を置いて魂のみが黄泉の国へといける場所。
古代のシャーマンだったら、魂も永遠の命を得て、目を光らせていても不思議はない・・。

そんなことを考えていたら、何だか背筋が寒くなってきた。
君子危うきに近寄らず。
体温でお尻も乾いてきたことだし、とにかくとっととこの場から立ち去った方が良さそう、と足早に猪目洞窟を後にしたわたし達なのでした。


つづく



伊勢、京都、出雲に行ってきた!(18)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

ちょっと疲れてしまい、「伊勢、京都、出雲に行ってきた!」をお休みしていましたが、早く書かないとボケ気味の昨今、何があったか忘れてしまう。

もう誰も読んでくれなかろうが、ランキングが下がろうが、どうでもいい。
何はともあれ、とにかく終わらせてしまわなければっ、と決意も新たに、とっとと書いていきたいと思います。
(嘘です。ランキングなんて口に出せないレベルのブログです。「拍手」だっていいとこ1つか2つです。すみません、見栄張りましたっ。)

実際に行ってみたら、パンフレットの書き込み通り「高所恐怖症及び、極度の肥満体型は参拝不可能」だった韓竈神社(からかまじんじゃ)から無事下山したわたし達。

せっかくだから、と近くにある鰐淵寺(がくえんじ)に行ってみることにしました。

韓竈神社を出てゆっくりと鰐淵寺を目指します。
だんだん道は狭くなり、天気が良いのに鬱蒼とした山は薄暗く、辺りは人っ子一人いない。

第一駐車場について案内看板を見ると結構歩かなければならない様子。
もう少し先まで車で行こうとすると、例のごとく融通の利かないふんどし息子が「ここに車を置くって決まってるんだから歩いて行こう。」と言い張る。

ここで言い争っても面倒なので、仕方なく車を置いて歩き出す。

が。
これが意外に遠い。
渓流沿いを延々と歩く。
しかも車で行けそうなので、余計に遠く感じる。

ちっ、こいつの言うことを聞くといつもこんなだ、と舌打ちしたい気持ち。
でも口に出すと面倒な言い合いになりそうなので、我慢して黙々と歩く。

鰐淵寺川に沿って進むとやっと仁王門が見えてくる。
わたし達を歓迎するかのように、光のお出迎え。

                鰐淵寺 仁王門


鰐淵寺
『伝承では推古天皇2年(594年)、信濃の智春上人が当地の浮浪の滝に祈って推古天皇の眼疾が平癒したことから、同天皇の勅願寺として建立されたという。
寺号の鰐淵寺は、智春上人が浮浪の滝のほとりで修行を行っている際に誤って滝壺に落とした仏器を、鰐がその鰓(えら)に引っ掛けて奉げたとの言い伝えから生じた。
ここで言う「鰐」はワニザメを指すと言われる。』

なんていい子なんだ、ワニザメ。

入山料500円を納め、階段を長い上る。
本来ケチなわたしにとって「入山料500円はちとお高い」と言いたいところだけど、階段を上りきるとそんな気持ちは吹っ飛んだ。

綺麗に掃き清められた広い境内は、静寂に包まれている。

正面の根本堂に参拝。
右手の釈迦堂に山伏の姿をした方がいた。
さすが修験の地。

根本堂の左には常行堂と摩陀羅神社が時間を超越したかのように佇んでいる。

鰐淵寺 常行堂

ここで磐笛奏上。
山々に法螺貝の音が響く。

ここをこんな風に維持するのはさぞ大変だろう、とマキオカの草むしりに奮闘する自分と重ねあわせ(いや、一緒にしちゃ失礼だろ)500円の入山料さえ申し訳なく思う。
わたし達と山伏風のヒトしかいないってことは、今日の午後は1500円にしかならない・・などと下世話なことを考えてしまうわたし。

階段から外れて急な裏坂を下りるとまるで「天空の城ラピュタ」の屋上庭園のような空間が広がる。
なんて気持ちの良い場所・・。
さらに下りていくと、昔街道だったと思わせる山道に出た。

そこから、寺号の由来の「浮浪の滝」と「蔵王堂」へ向かう。

『鰐淵寺の所在する島根県や隣の鳥取県は修験道・蔵王信仰の盛んな土地であり、当寺も浮浪の滝を中心とした修験行場として発展したものと思われる。
浮浪の滝は鰐淵寺の入口から渓流を500メートルほどさかのぼった地点にある。水量は少なく、滝壺の奥には蔵王堂が建つ。』
とある。

鰐淵寺の名が付いたとされる伝説の舞台「浮浪の滝」は、弁慶が滝に打たれ修行したという話でも有名らしい。

『弁慶は仁平元年(1151)3月3日、松江市郊外に生まれ、18才で当寺に入り、3年間修行した後、やがて比叡山に登り、牛若丸に出会ったと伝えられています。』

え、弁慶って桃の節句がお誕生日だったんですね。

『壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後再び鰐淵寺に身を寄せ、この際多くの伝説・遺品を残した。
特に、弁慶が大山寺から一夜で釣鐘を運んだとの伝説は広く世に知られ、その際に持ち帰ったとされる寿永2年の銘のある銅鐘は国の重要文化財に指定されている』

大山寺って、在の鳥取県大山町の山中にある寺で、この鰐淵寺まで約101kmあるらしい。
山道を釣鐘を担いで、一夜にして持ち帰ったって、どんだけ力持ちで健脚なんだ、弁慶。

弁慶っていうのは、元々格下の僧侶の名前に使われることが多かったから、どこにでも弁慶っていたらしい。
それが、源義経と一緒に活躍したのが名前が弁慶って聞いたら、どこの寺でも「ウチにいたよ、弁慶!」って言い出した。だから、本当の出身というのは謎」っていう話もある。

それはともかく。

案内板には徒歩7分とあったので、甘く見ていたわたし達。
川を石づてに渡り、崩れそうな山道やぬかるんだ地面、中世には僧兵を囲っていたという、城跡の一部のような古びた石垣を抜けると、やっと「蔵王堂」が現れた。
体感的には20分くらい歩いた感じ。
あー、疲れた。

でも。
切り立った岩肌の岩窟に作られた「蔵王堂」は、神秘的な空気に包まれ、心が清浄になっていくのがわかる。
鬱蒼とした木々に囲まれ森厳さをたたえる山には野鳥の声が響き、かつて弁慶も打たれただろう滝は、現在は水滴が時々滴り落ちるのみ。
鰐淵寺の名前の由来にもなった浮浪滝は修験者の守護神”蔵王権現”の聖地とされたらしい。
来れてよかった、と心から思う。

感に堪えないように見上げていた息子が「蔵王堂を見てくる。」と言い出した。

見てくるって、あんた。
頭上18メートルの所にある蔵王堂へ上る岩肌は藻がびっしりと付き、見るからに滑りそう。
あまり掴まるところもなく、かなり危険な様子。
真下には滝壺と思しき深そうな水たまりがある。
息子はわたしに鞄を持たせ、自分は磐笛を持ちどんどん上って行く。

                 鰐淵寺 れい


ちょっ、危ないじゃないかっ。
ったく。
・・・
そして何より、わたしも近くに行ってみたいっ!

そう思ったわたしは、よせばいいのに鞄をたすき掛けに肩にひっかけ、恐る恐る上ってみた。
岩肌に這いつくばって奮闘する。
が、急な岩場には掴まる草や根もなく、鞄を抱えたわたしには無理だということが判明。

息子は無事登り終え、蔵王堂の間近で磐笛奏上。
わたしは這いつくばったまましばらく頑張っていたが、ついに諦めそろそろと下りることにした。

が、途中で藻に足を取られ、気が付くと滑り台のように転げ落ちてしまった。
お尻がまるでお漏らしをしてしまったかのような悲惨な状況になってしまった。

うぅ・・。
目の前が真っ暗になるわたし。

そのわたしの神経を逆撫でするように、息子が「磐笛を奏上でき、無事下りて来れて良かった。」などと誇らしげに言う。

そりゃ、さぞかし気持ち良かったでしょうよ。
あんたは磐笛だけ持って上ってんだからさ。

こっちはおばさんの上に、鞄やカメラを全部持たされてんだからねっ。
手が塞がってて転んでこの有様だよっ。
労わりのコトバはないのか、え?

心の中でなじるが、それよりどうやってレンタカーに乗ったらいいかで頭が一杯になる。
もし車を汚したら、せっかく安く値切ったのが無駄になっちゃうじゃないですかぁ!!

来た道をびっしょり濡れたお尻を気にしながら早足で歩く。

受付にご住職と思われる方がいてお茶を淹れて下さった。
が、お漏らし状態のわたしには、もはやご住職の親切が仇となっている。

思い切って事情をお話しし、ビニールか何かないか伺ってみると、プチプチのビニールを下さった。

天の助けとはこのこと。
ありがたし!!

心から御礼を言って、濡れたお尻を隠しながら再び駐車場に向け歩き出したわたし達なのでした。



つづく、

妙見山に行ってきた(4)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

今日は主人の命日。
早朝息子と一緒に主人の眠る建長寺にお墓参りに行ってきました。

主人が生まれたのは7月7日7時7分。
初めて聞いた時はふざけているのかと思いました。ホントに。

13年前「もう亡くなるのは時間の問題。」とお医者様に言われた後、病院の集中治療室の外のベンチに座りながら「今日は11月11日。11引く7は4。ん?主人は44歳。こ、これって・・?
もしこのまま逝ってしまったとしたら、なんだかスゴイ数字の巡りあわせ。
11時11分に亡くなったらコワい・・。」
と思っていたあの夜。

結局11時25分に亡くなった時、なんだかホッとしたような不思議な気持ちがしました。

これを読んで「ご主人が亡くなるって時に、そんなフザケタこと考えてるなんてサイテー。」とか思ったあなた。
あなたは人生ってものがよく分かっていらっしゃらない。
人間って、大変になればなる程意外に下らないことを頭の隅で考えちゃうものなんですよ。
(え?わたしだけ?)

その後のお通夜、葬儀は想像以上にたくさんの方が来てくれました。
迷惑をかけたにもかかわらず、生徒達も学校をサボって、通夜、葬儀の両方に大勢駆けつけて、一緒に泣いてくれた・・。

この場を借りて御礼申し上げます。

あの時のことを思い出すと、苦しかったけど、嬉しかったことも多かった気がする。
今は痛みや辛かった経験が血となり肉となっていることが分かる。

それはともかく。

長い林道の途中にやっと「妙見山」の標識が出てきて、やっと山道に入ることが出来たわたし達。

このルートは、大抵山梨百名山の小楢山に行く通過地点として通るらしいが、わたし達の今回の目的は妙見山に行くこと。

かなり急な勾配を上って行く。

暫く行くと、鎖場がある。
這いつくばってひたすら上る。

鎖場の上は、見返り岩といい、かなり良いロケーション。
犬キヨに「ほら、スゴクいい景色だよ。」と言い、気持ち良さを共有しようとするが、疲れ切っている彼はそんなモノどうでもいいらしい。

この頃になると、犬キヨからさっきまでの喧しさが消え、無口になりひたすら上っている。

                        妙見山 潔

人間、本当に大変になると愚痴も言えなくなるのね。
犬キヨは前に進まなければ帰れないと覚悟を決めたらしい。

ヒトも動物も観念するとこういう状態になるのね、と「ドナドナ」の牛を思い浮かべながら横目で観察するわたし。

やっと「差山」の標識が出てきた。

                  妙見山 標識

ここが地形図に記されている標高1358mの山。
「差山(妙見山三角点)」と書いてあるので、地理院ではここを妙見山としていたらしい。

少し休み、再び歩き出す。

暫くすると妙見山(1224m)という新しい山名板があったので、とにかく記念に写真を撮る。

妙見山 山頂

そこから一挙に下り道になる。
分かりにく道なので、ピンクのリボンを目印にひたすら下る。

この頃になると、わたしも足が痛くなってきたが、我慢しつつひたすら下る。

途中立派な磐座があり、流石信仰の山と感心。

                        妙見山 磐座


「妙見尊」の矢印があったが、もう探す時間もないので、次回への課題とする。

とにかくこの下り、意外に長く、下界が見えていてもなかなか着かない。
落ち葉の道なき道を、目印を見失うまいと、気を張りながら急斜面を下る。

犬キヨも自分のペースで黙々と落ち葉を踏みしめ下っていく。

そういえば、この犬キヨの子供の頃の経験は今でも我が家の語り草になっている。

犬キヨが小学生の頃、夜中に突然呼吸ができなくなった。
慌てふためいた父は犬キヨを後ろに乗せ、真っ暗な夜道を必死に自転車を走らせた。
ところがある神社の前に差し掛かった途端、後ろから犬キヨの声がしなくなった。
心配になった父が自転車を止め後ろを振り返ると、犬キヨがケロッとして座っている。
「どうしたっ。」と聞くと犬キヨは「治った。」ときょとんとしていたという。
狐に化かされたような気持ちがして帰宅した父が犬キヨに詳しく話を聞き出すと、前日学校の帰り道、その神社でおしっこをしたと白状した、という話。

わたしは子供心に「バチって本当に当たるんだ。」と怖々聞いていたのを覚えている。

そんな経験がある犬キヨは、やはり霊媒体質らしく、他にも不思議な経験があり、七面山にも登っている。
「これも何かのご縁かもね。」と言うと「そんな訳ねえ。」とにべもない返事。

そう、こういうところも犬キヨのいいところ。

犬キヨはもう山には一生登らないだろう。
最後の山登りに一緒に来れて良かった!

鼓川温泉に続くゲートを開けながら、心からそう思うわたしなのでした。


つづく









妙見山に行ってきた(3)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

前回は失礼いたしました。
牧丘町のあまりの借金の多さに、自分を重ねてつい我を忘れてしまった。

歳を取ると怒りっぽくなって、ほんと、イヤ。
こんなことで脳梗塞になったらご先祖に申し訳ない・・。
気を付けよう。

とにかく「熊注意」の標識のあるゲートをくぐったわたし達。
しばらく林道が続く。
周りを見回すと、伐採された斜面に杉が植林され、大規模な工事をした様子。

てくてく歩く中年のオンナと初老のオトコ。
他に人影はない。

10分くらい経って、犬キヨが「何だ。上りばっかじゃねえか。」とボソッと言い出した。
そりゃそうだ。山だもん。

また5分すると「まだ上りが続くのか。」と言う。
そりゃ続くよ。山だもん。

また5分後「オレはこんな上り坂、歩いたことがない。足、痛てえ。」と情けない声を出す犬キヨ。
・・え?もしや犬キヨ、あんた、歩くのが苦手なヒト?

しょうがないので15分おきに休憩を取ることにした。
それでもブーブーと文句が多い犬キヨ。

暫く行くと右手に、重ねられた古い石と説明書きがある。

                 妙見山 石碑

読んでみると
『戦国時代武田氏に仕えた信州川上の城主の姫が夫を慕って中牧城に来たが、城は信長の軍勢に陥落され、夫は討ち死に嘆き悲しんで盲目となり、川上村に帰る道に迷いてこのところに死す。』
とある。

「帰る道に迷い」姫は最期に何を考えたのか。
従者と共にこの道を嘆きながら歩く妙齢の佳人。
夫を想いながら、姫はここでたよたよと倒れ込む・・。

それにしても。
こういうところに「姫」と書いてあるとすっごくたおやかで美しい女性を想像してしまうが、姫といっても千差万別、十人十色。・
不細工で太った髪の薄いおばさん姫もいたに違いない、と下らないことを考えながら歩くわたし。

犬キヨの愚痴がわたしの想像をかき消す。
「足が痛い」だの「胸が苦しい」だのと言うのを宥めながら歩いていると、向こうからお年寄りのご夫婦が乗った軽トラが来た。
車を停め、妙見山への行き方を聞くと「まだ大分あるなぁ。まぁ、今日一日かければいいずら。」との返事。

絶句する犬キヨ。

そういやわたし、ルートは調べたけどコースタイムをチェックしていなかった。
近くにある山だから舐めてかかって、ほんの2~3時間で下山できると高をくくっていた。

ごめん、犬キヨ。
チャランポランな妹を持ったのが不運と諦めてくれ。

喉元まで「荷台でいいから乗せてってくれ。」という言葉が出かけているのが手に取るようにわかる犬キヨ。

下って行く軽トラを名残惜しそうに見つめる犬キヨを尻目に、思った以上に時間がかかることが分かり歩を速める。

「旧道父恋し入り口」の標識が出てきた。
林道から左に入る木の階段がある。
登ってみると、いいお顔の石仏が鎮座していた。

妙見山 石仏

しばらく石仏の横で待つ。
やっと追いついた犬キヨはもうふくらはぎが張ってつらくてしょうがないと言う。

ちっ、仕方がない。
ここで帰るとごねられても面倒なので、優しくふくらはぎのマッサージなんかしてあげる。
なんて優しいわたし。

ホントは騙くらかして連れてきたようで、ちょっと責任を感じてしまったの。
ごめんね、犬キヨ❤

山道を抜けたら、再びさっきの林道に出た。
そこに「母恋し路・父恋し路」の標識が。

                妙見山 看板

『(前出の)姫が川上村に残した二人の姉弟が、後日供を連れて両親の供養をしようと小楢峠にさしかかった。
姉はやさしい峠道を下り(母恋し路)、弟は険しい奇岩の連なる大沢山(父恋し路)を下ったので、誰云うとなく父恋し路・母恋し路というようになった。』
と解説板に書かれている。

が、現実は。
ゼーゼーと苦しそうに喘ぎながら足を引きずっている兄に対して、鼻息荒くシャカシャカ早歩きをする妹。
兄は「父恋し母恋し」というよりは、「湿布恋し車恋し」の状態。

ここから登山道に入れるらしいが、取りあえず引き続き林道を歩くことにする。

それにしても、と思う。
延々と続く林道は、豪雨の影響か、ひび割れたりして、荒れている。
鹿の糞がまとめて落ちている場所があり、動物が道路を横断しているのが分かる。
20メートルほどの高さの山肌をコンクリートで固めているが、ところどころ雑草が生え、崩れかけた雀蜂の巣が見える。
道幅が広く、莫大な費用が掛かったのがうかがえる。

歩き出してかなりの時間が経っているが、今まで出会った車は軽トラ2台だけ。
いったいこの林道は何の意味があるのだろう。

林業に従事される方の為?
雇用を作り、地元にお金を落とすため?

わたしのような門外漢にはわからないが、これからの時代、尾瀬のように自然を維持しつつ、共生するシステムを作って行かないといつか立ちいかなくなるのではなかろうか。

自然のサイクルを壊すことなく、景観や登山者にも配慮した山作り。
年々激しさを増す自然災害に対応でき、管理修復がし易く、費用もそんなに掛からない方法はないのだろうか?

ぼんやりとそんなことを考えているわたしの耳に「オレはもうやぁどぉぉ。(嫌だぁぁ)」という犬キヨの切ない叫びが響いたのでした。


つづく




妙見山に行ってきた(2)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

「妙見山」について調べるうち、七面山と強いつながりがあると分かり、何か見えない縁によってマキオカに呼んで頂いたのでは?と、思い始めたわたし。
いつものように好奇心と思い込みの強さから、早速「妙見山」に登ることにしました。

ネットでルートを調べると、「鼓川温泉」と「オーチャードヴィレッジフフ」に登山口がある。

こういう時いつも一緒に行動するふんどし息子は仕事の為、残念ながら行けない。
単独登山は、あまりメジャーじゃない山では危ないと、数ある経験からちょっぴり学習したわたし。

誰か一緒に行ってくれないかな、と思っていたら。

そうそう、いるじゃないか。
最近マキオカの準備を手伝ってくれているわたしの異母兄弟、犬キヨ(仮名)が。

犬キヨは67歳のナイスガイ。
明るくてお人好し、お酒の席が楽しくなる人気者。
仕事をリタイアした後は、夫を立てるのが上手なしっかり者の奥さんと悠々自適に暮らしています。

犬キヨに電話で「マキオカの準備が終わったら山に登らない?」と誘ってみると「おう。」との軽い返事。

犬キヨが行ってくれるんだったら車が二台使えるので「オーチャードヴィレッジフフ」から「鼓川温泉」まで縦走できるな。
一台は鼓川温泉に置き、もう一台に二人で乗り「オーチャードヴィレッジフフ」に行って、車を置いて登る。
「鼓川温泉」に下山した後、車で再び「オーチャードヴィレッジフフ」に戻ればいい、というプランを立てました。

翌日、犬キヨと一緒にティピィを設営した後、予定通りわたしの車を鼓川温泉に置き、一緒に「オーチャードヴィレッジフフ」に向かいました。

で、突然話は反れますが。

今「オーチャードヴィレッジフフ」について調べていたら、ちょっとビックリ。
世の中どうなっちゃってるんだ。

「オーチャードヴィレッジフフ」
『旧牧丘町が総事業費約21億円をかけて建設し、92年に開業した。約7万4500平方メートルの敷地にホテルやレストランを備えた複合施設。
町直営で1億5千万円以上に膨らんだ累積赤字を民間ノウハウで解消しようと、04年4月に県内自治体では「先駆け」として指定管理者制度を導入。運営団体に選ばれた同法人が同年6月、芸術展示施設としてリニューアルオープンさせた。
しかし指定管理者だったNPO法人が撤退し、施設の管理業務が市に返還された。』

何これ?
なんだかスゴイことになっている。

小高い丘に町営のやけに個性的な宿泊施設があったのは知っている。
以前見に行ったら、建物はやたらにお洒落なのに廊下の隅に雑巾があったりして「ハードはいいけどソフトがダメ。」と思ったものだった。(何故か上から目線)

暫くして、経営が上手くいかず閉鎖した、という話は聞いていたが、まさかこんなことになっていようとは。

要は累積赤字に困って殆ど個人でやってるNPOに指定管理を任せ、さらに一千数百万円の累積赤字を出しNPOは解散、っていうことなのね。
 
ゆ、許せんっ。

熊男のうちは専業農家で一把100円のホウレンソウの為に夜遅くまで作業しているというのに。

21億円って何?
累積赤字が1億5千万円、さらに一千数百万円の累積赤字って?
そして今はもっと膨らんでいるに違いない。

そんなに税収もなさそうな地方都市が、とてつもない借金をこさえていたとは。

責任者、出てこいっ!
指定管理者制度って何だぁ!

「累積赤字を民間ノウハウで解消」とかいって
『入場料は無料で年会費1万円の個人会員を募る手法をとり、当初は売り上げを年間1億2千万円、来場者数を10万人と見込んだ。
だが、会員はわずか17人にとどまり、来場者数は04年度約4300人、05年度(4~11月)約1600人と年々減少していたという。』
ってどういうこったぁ!!

こんな言ったもん勝ちの、スカポンチンなプランをノウハウっていうのかっ!
ゴーサインを出し、甘い汁を吸ったのは誰だぁ!!

・・って。
わたしには全く関係ないんだけど。

でも、わたしは人が無駄なことをするのも嫌う、まっとうなケチ。
他人が損をするのも不愉快なの。
あー、怒りがふつふつと沸いてくる。

はっ、しまった。
「妙見山に行ってきた」という題なのに、妙見山のことは全く書いていない。

気を取り直して。

「オーチャードヴィレッジフフ」はごく最近、朝ヨガや森林セラピー、 農業体験などができる「保健農園ホテル フフ山梨」として再スタートした。

妙見山の登山口は「フフ山梨」を通り過ぎてすぐ。
お客の入り具合を気にして「フフ山梨」の駐車場をじろじろ観察するわたし。

連休の中日っていうのに5~6台しか入っていない。
大丈夫なの?

いかん、いかん。
ヒトの心配してる場合じゃないっつうの、と呟きながら「熊注意」の標識のあるゲートをくぐったわたしなのでした。

             妙見山 フフ ゲート


つづく





妙見山に行ってきた(1)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

「伊勢、京都、出雲に行ってきた!」も(17)になり、皆さん、飽きてきたかと。
わたしもちょっと疲れたので、一休み。
少し近況を書くことにしました。

最近わたしのブログを見ている知人に「神社仏閣ばかり行って、変な宗教にはまっているんじゃないか」「いつも遊んでるようだけど、仕事をしているのか」と、ご心配やら、忠告やらを戴くことがある。

ご心配には及びません。

我が家は先祖代々臨済宗。
だから宗教の勧誘を受けると「我が家の家訓で他の宗教に入っちゃいけないと言われています。」とお断りさせて頂いています。

我が家の家訓。
「墓を守る」
「転んでもただで起きない」
「面白そうなことは全力でやってみる。ただしヤバそうなときは全力で逃げる」

家訓っていってもわたしが作った家訓なんだけど。

そして仕事の方もそれなりに頑張っています。
先週もしっかりマキオカに行って仕事をしてまいりました。

マキオカは今白樺の葉が落ちて、金色の絨毯を敷きつめたよう。
山々も色づき、空気が澄んでとても気持ちがいい。

                         マキオカ サイト紅葉

マキオカネイチャークラブは前面が開け、素晴らしいロケーションが広がっています。
ホント、自分でいうのもなんだけど、なんていい所なんだ!

マキオカの紅葉


周りを見回すと、右手にかっこいい山。

                     妙見山を望む


この山、今年初めて「妙見山」という名前であることを知りました。

以前も書きましたが、わたしは機械オンチ。
この夏マキオカに来てくれたお友達がスマホで地図を見せてくれました。
そこには「マキオカネイチャークラブ」の文字が。

おお、スゴイぞ。
どこにも登録していないし電話も引いてないのに、なんで地図に載ってるんだ?
こういうものを作るヒトの情報収集力、侮れん。

ちょっと感激。
で、よく見ると、うちのすぐ横に「妙見山」の文字が。

え?いつも眺めているあの山、「妙見山」っていうの?
知らなかった・・。
熊男(仮名)に聞いてみたけど先祖代々住んでいる熊男もよく知らないらしい。

早速妙見山について調べてみた。

Wikiによると
『全国各地に存在するが、主に西日本に多く分布し、特に岡山県では12箇所を数える。
山名の「妙見」は北辰(北極星)に通じ北辰妙見信仰との関連がある。
妙見菩薩を祀る日蓮宗との係わりも深い。
山域内に妙見神社、妙見宮、星神社などが建立されて信仰を集めている所が多々見られ、そのために古くからの名が現在のものに移り変わった例も多い。』
とある。

日本国内の「妙見山」の一覧があったが、52個もある。
その中で、何と我がマキオカの横の妙見山が日本一高いじゃないですかぁ!

何故かちょっと自慢げになってしまうわたし。
なんだか家族を褒められたように嬉しい。

この一覧を見ているとあまり高くない山が多い。
どうやら「妙見山」と名付けられるのは「高さ」ではない何か別の共通の要素があるらしい。
そんなことを考えていると、FBで繋がっている方が「妙見山」について記事を載せているのを発見。

『妙見尊も鉱山と関係が深い。熊本県八代妙見社は近くの鉱山跡があり、福岡県星野村妙見城には金坑がある。
大阪能勢妙見尊は源満仲が砂金を発見して以来鉱区で、豊臣秀吉のドル箱であり、金・銀・銅・の産地であった。
和歌山市妙見山は種々の鉱石がみられる。長野県武石村妙見寺の付近に金山があった。
栃木県磐裂神社、通称妙見さまには足尾銅山がある。
山梨県七面天女の本地は吉祥天とも言われ、仏説北斗七星延命経には七星の一つ、文曲星を吉祥天とし、妙見尊・吉祥天・七面天女を同一視している。
七面山一帯は武田信玄当時、甲州金の一大産地であったと言われる。』  

ぎょぎょぎょっ。
山梨県七面天女の本地って、あの七面山?

実は七面山はわたしの母が信仰していて80歳になるまで登り続けた山。
わたしも付き合って何年も荷物持ち兼お供で登っていた・・。

不思議な縁を感じてビビるわたし。
・・・
もしかしたらもしかして、呼んで頂いたのだったりして?

そして「七面山一帯は武田信玄当時、甲州金の一大産地」ということは。
も、もしやこの辺にも金が?

更に記事は続く。

『明星(虚空蔵)は太白星の金星であるのに対し、妙見尊の北極星は陰陽五行説による太極(太一)の子にあり、北天の中央にある不動星、つまり天皇大帝に擬された。
伊勢神道においては、天照大神を宇宙の中心たる北極星の太一に昇格させた。
日本の星神信仰の原始修験は、道教の錬金術と仏教の須弥山思想から発して、修験道場のある所は鉱物を産出する山々である。
 このように星神信仰は、鉱山における妙見尊と虚空蔵(明星)信仰により、妙見と虚空蔵(明星)を同一視する思想背景が生まれてきた。
神道では天照大神の先祖神たる天つ神、造化三神の天御中主命が北極星に配される。
いわば皇室の原始である。
星神信仰の中で天御中主命ー妙見尊ー虚空蔵ー明星天子の同体化思想が形成されてくる。』

『皇室の原始たる天御中主神を天皇側からとらえれば妙見尊と呼称され、庶民信仰からとらえれば虚空蔵(明星天子)と呼称されるのである。
道教的には妙見神、仏教的には虚空蔵尊という関係である。』

ほほう。
なんだかスゴイ。

「面白そうなことは全力でやってみる」という家訓を作ったわたし。
とにかくこれは登ってみなければ。

ということで、先日早速登って来ました。


つづく

伊勢、京都、出雲に行ってきた!(17)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

出雲のどこに行こうか検討したわたし達がまず向かった先は韓竈神社(からかまじんじゃ)。
地元で「かんかまさん」と親しみを込めて呼ばれ、出雲国風土記(733年)には韓かまの社(からかまのやしろ)と記される由緒ある神社です。

何故ここにしたのかというと、観光センターで貰ったパンフレットに載っていた神秘的な写真を見て、是非とも行ってみたいと思ったから。

以前は出雲の地元の人にもあまり知られない神社だったらしいが、最近メディアで紹介されて参拝客が急増したらしい。

「ズボン、スニーカーの軽装がベスト」とも、「高所恐怖症及び、極度の肥満体型は参拝不可能」との書き込みもあり、好奇心がくすぐられる。

レンタカー会社のおばちゃんを拝み倒して借りた安い軽自動車のナビを見ながら進んでいくと、次第に寂しい山道になり、40分位で駐車場らしき空地に着く。

車を置き、木の鳥居をくぐって、右手に流れる渓流を見ながら森林浴を楽しむ。
木々の間から日の光がこぼれ、気持ちの良い空間が続く。  

              韓かま神社 木立


心が澄んでいくのが分かる。
自然の息吹、宇宙エネルギーを存分に味わいながら歩く。

が、奥に行くにつれ、辺りは段々暗くなり心なしかか空気も重くなっていく。

暫く行くと、右手に木製の鳥居と案内板が現れる。

韓かま神社 鳥居


『韓竈神社の建立は不詳ですが、非常に古い由緒を持つ神社といわれています。
社名のカラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意味するとされ、祭神のスサノヲノミコトが御子神(イソタケルノミコト)と共に新羅に渡り、日本の「植林法」の伝授と「鉄器文化」を開拓されたと伝えられています。』
とある。

鳥居の先に、スサノヲノミコトが新羅に渡るときに乗ったとされる「岩船」として大きな平石があるというので、覗いてみる。

おお、この石の上にスサノヲノミコトが!
この岩の続きにある大きな丸い岩を帆柱岩として船をすすめ、この地に天降りしたと伝えられているらしい。

その先に滝があったので、ロープにつかまりながら滝壺に降りてみた。

                          韓かま神社 滝壺

やはりここも先日の台風の影響か、荒れた感じはあったが、むしろ昔の面影を思わせる厳しい神聖さがあった。
ここで磐笛を奏上。

再びロープにつかまって崖をよじ登りながら、ふと我に返る。

人っ子一人いない山奥の滝つぼを、髪振り乱してよじ登っている50オンナ。
今誰かがここに来て滝壺を覗いた時わたしが顔を出したら、さぞかし驚くに違いない。

それはともかく。

鳥居をくぐって歩き出す。
苔むす自然石の急な石段が続く。

と。
一気に重苦しく人を寄せ付けない空気に変わった。
平日のせいか全く人影のない山道に茂る鬱蒼とした木々は、閉塞した空間を作り出している。
空が見えないような薄暗い樹林の中、迫力のある巨石を見ながら歩いていると、いつしか不安な気持ちに襲われる。

・・なんか、コワい。

とにかく急ごうと木の根が露出して不安定な石段を急いでいると、突然目の前に何かが飛び出した。
ぎょっとするわたし。

よく見ると、ちょっとメタボ気味の男の方が息を弾ませている。

「ちょっ、驚かせないでよねっ。それでなくても血圧高いんだから。こんなとこで心臓麻痺起したらどうしてくれるっ。」と叫ぶ。(もちろん心の中で)

この男性もかなり驚いた様子。
挨拶をし、話しかけてみると、静岡から一人で来たとのこと。
タクシーの運転手に「あまり人が行けない秘境のような神社に行きたい。」と言ったらここに連れてきてくれたんだとか。

確かに「あまり人が行けない秘境のような神社」ではあったが、いざ本当に来てみると、全く誰もいない暗い山の中で、とても不安だったらしい。
さらに例の岩の割れ目でなかなか本殿に入れず、あきらめて帰ろうかとも思ったが、せっかくここまで来たのだからと思い、かなりの時間格闘してやっと参拝できたとのこと。
が、帰りもお腹がつっかえてなかなか出れなくなってしまい、大変だったと仰っていた。


相当心細かったらしく、無人島から脱出したヒトのように、嬉しそうに堰を切ったようにお話になる。

「え、この程度のお腹でつっかえてしまうんだ。」と思わず男性のお腹を見てしまう失礼なわたし。

すると急に我に返ったらしく「この後仕事があるのに間に合わないかも。」とその男性は青い顔をして駆け下りて行った。

それにしても。

ここをたった一人で登って、更にお腹が岩穴でつっかえてしまったら、ちょっと恐怖。
わたし達は二人でも心細くなるような場所なのに。

・・ちょっと陰からこっそり見てみたかった気もするが。

あの「体格のよい人は断念せざるを得ない人もいるかもしれません」という記述は嘘じゃなかったのね。

でも、あの駐車場には他に車は停まっていなかったけど、どうやって帰ったんだろう。
携帯も繋がりにくいというから、タクシーも呼べないだろうに。
他人事ながらちょっと気になる。

あの時の静岡の方、もしお読みでしたらご一報下さい。

しばらく登ると例の岩の割れ目が現れた。
確かに、せまっ!
(岩盤の裂け目は幅45㎝らしい)

韓かま神社 岩

ここは女性の産道に見立てられ、子宝に恵まれるという言い伝えもあるらしい。

確かに産道と言われれば似てなくもない。
荷物は息子に持ってもらい、何とか通り抜ける。

これ、友達何人かと来て自分だけ通れなかったらヤダ。
いや、一人で夕方来て挟まったまま夜明かしっていう方がもっとヤダな。

これから行ってみようと思っている方、ご注意下さい。

岩の割れ目を抜けると、6畳ばかりのわずかな平地があり、社が佇んでいた。

                    韓かま神社 社

その背後の岩の大きさはどこまでも高い。
さっき行った滝壺といい、この社の佇まいと言い、修験の聖地だったということがはっきりとわかる。
更に社の左上にも瞑想にぴったりの空間がある。

「国家安泰」「国民の守護」を祈念して磐笛奏上。

その時一陣の風が。
周囲を見回すわたし。
こ、これは鞍馬寺で感じた風と同じ雰囲気なのでは?


ここに鎮座するこの神を古代の人々はどのような気持ちで祈ったのだろうか。

大きな岩に神が天降りされたとの伝承は時が流れても今に伝えられている。
巨岩を神の宿る岩、磐座と崇め祈りをささげる信仰は、ここにいると、古代の人々だけのものとは思えなくなってくる。

戦時中 ここをくぐり抜けると 戦地に行っても必ず無事帰って来れると言われていたらしい。
今の時代、一見平和に見えて、実はあらゆる分野で戦争をしているような状況とも聞く。

どうか、我が国日本が無事に困難をくぐりぬけ、本当に平和と言える時代を迎えることができますように、と願わずにはいられないわたしなのでした。

つづく
プロフィール

マキおかん

Author:マキおかん
気が付いたらキャンプ場をやっていたマキおかんです。

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