帯那山に行ってきた(2)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

「ちょっくら行ってくっか」的な軽い氣持ちで行ったものの、辿り着けなかった帯那山。
山梨市で朝食を摂り、JAで野菜を買い、再び帯那山に向かう。

別に迷ったわけじゃないもんね。
朝食食べないと体に悪いし、山梨の野菜は新鮮で美味しいから来ただけだもんね。
・・嘘です。
迷いました。ごめんなさい。

それにしてもいったいどこにあるんだ?帯那山。

わたしの大好きな窪八幡神社の横を通り抜け、元来た道を辿る。
来た時は氣が付かなかったけど、左に巨石に頭を載せたような奇妙な石仏がある。
な、なんかコワいんだけど、何?

調べてみると「首地蔵」というもので、巨石の下敷きになった少女を供養するために上に首だけを載せた、とのこと。
移動させようとしたら祟りがあったとも看板に書かれている。
・・やっぱ、そうっとしておかなければダメなやつなんですね。

途中の集落で道行くおばあさんに道を尋ねると、どうやら甲府方面に行くらしい。
むう、林道を出た時右に行けばよかったのか。

暫く行くと太良ヶ峠の看板がある。
右の方向に帯那山の文字が。
進んでいくと、「帯那山アヤメ群生地」の看板と車が停められるスペースがあった。

そういやアヤメの群生を見に来たんだった。
やっと思い出し(ボケの兆候?ちょっとヤバい)登って行くとアヤメの群生地と思しき斜面にでる。

え?群生地?
・・ちょっぴりしか咲いていないし。
迷い迷って、せっかくここまで来たのに。

5分ほどで頂上に着く。

おおー、いいじゃないか!
眼前に広がる奥秩父の山々、南アルプス連峰。
そしてすっくりそびえる美しい姿の富士山。

なんだか清々する景色。

柏手を打って、深呼吸する。
太古の日本人は「天晴れ、あな面白、あな明け(さやけ)、おけ」と歌って感謝していたという。
見習って呟いてみる。

まさかこんなに遠いとは。
そして何もない氣持ち良さに感動する。

それにしても。
昔はこんなところまで小学生が遠足で来ていたというの?
近隣の若い衆が、いくら娯楽がなかったとはいえ、こんな遠くまで歩いて来たってこと?
むう、その脚力、愚直さ。
侮れん。

そうこうしている内に富士山にかかっていた傘雲が消え、見事な富士の姿が。
                 
帯那山 富士遠景

                  帯那山 富士山

奇しくもこの日、ユネスコの世界遺産委員会は、富士山を世界文化遺産として登録することを決めたのでした。

やっぱり導いて頂いたのね。ありがとうございます!
と、迷ったことなんかすっかり忘れて、いつものように自分に都合よく解釈して、気持ち良く帯那山を後にしたわたしなのでした。

つづく

※おまけ
帯那山は稜線が帯のように長く、帯野が訛ったものと言われ、関東の富士見百景にも選定されています。
甲府市から登るルートは積翠寺以北は道幅が狭く、すれ違い困難な道のりが続きますので、山梨市側から登ることをお薦めします。
今回わたしが行った山梨市側からであれば、全線すれ違い可能な道路でアクセスできますよ。
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帯那山に行ってきた(1)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

先日マキオカにメンテナンスに行ったついでに、帯那山に行ってきました。

帯那山は甲府市と山梨市(旧東山梨郡牧丘町)の境にあり、山梨百名山の一つに挙げられる、とても見晴らしの良い山とのこと。
5月上旬から中旬頃、林道沿いや山頂展望台周辺に吉野桜が咲くほか、6月中旬には山頂東面のなだらかな斜面にアヤメが咲くことでも有名な山らしい。

時は六月。
アヤメを見に行かねば!

前日、熊男(仮名)から帯那山について、いろいろリサーチをしておきました。
昔は娯楽がなかったので、この辺の集落の若い衆は、皆6月になると帯那山に行ってお酒を飲んだとか。
小学校の遠足でもよく行ったらしい。

翌朝「ちょっくら行ってくっか」的な軽い氣持ちでマキオカを後にします。
赤芝の集落に入って行くと、樹齢400年の膝立の天王桜と津島神社があります。 

 津島神社

                    津島神社 看板


「由緒ははっきりしないが、京都の祇園様からの勧請か、インドの祇園精舎の守護神が牛であったことから、牛頭天王ともいう」なんて書いてある。

祇園って・・、シオン?
失われた10支族?
日ユ同祖論?

はっ、いかん、いかん。
つい、いつもの都市伝説好きの癖が出てしまった。
また子供たちに怒られてしまう。
それにしても何故山梨の僻地(失礼)に祇園が?

気を取り直して進むと「鍵懸の関」が出てきます。

『武田信之という人物をご存知でしょうか?西保三郎とも称します。彼は天文十二年(1543)、武田信玄と正室三条夫人(円光院殿)の間に三男として誕生しました。
彼が称した「西保」という場所は現山梨市牧丘町の山間にある地区名です。こちらには、信玄・勝頼期に雁坂方面の軍事上重要な間道として使用された、西保-赤芝-切差-太良峠-積翠寺-躑躅ヶ崎館とつながる秩父裏街道があります。その間道で重要な、かつ機密性の高い関所がここ山梨市牧丘町赤芝地区の鍵懸の関です。』

あ、だからこの辺、西保地区っていうんだ。
しかも三男だったから三郎って、なんて安易な名前の付け方。
いや、通り名で「西保を治める三男坊だよ」って意味だからいいのか。ふむ。

・・っていうか、それよりここって、そんなに重要な関所だったのね。

武田信之は11歳で病のために死去してしまったという説や、豊臣秀吉の小田原北条征伐の際に豊臣方に敗れ自害したとの説もあるらしい。
どちらにしても歴史的に大切な場所だったという印象だけど、今や限界集落に成り果てている。

ほんと、時代の流れを感じますな。
そして時間の渦に巻き込まれ、いろいろな事が流れて行ってしまう。

関所跡の少し奥に行くと動物除けの柵があるので、チェーンを外して林道に入る。
そこから気持ちのいい山道を走らせていく。

どんどん走らせて行く。
走らせて行く、が。

・・着かない。
着かないよお!

小学生が遠足で行ったんでしょう?
若い衆がお酒持って、毎年楽しみに歩いて行ったんでしょう?

着かないよ、峠は越えた感じなのに。

ちょっと遠すぎないか?
標識、見落としちゃったのか?

不安に思いながら進んでいくと、林道を抜けてしまった。
左は山梨市、右は甲府。
??
どこに行ったの?帯那山。
取りあえず山梨市の方に行ってみる。

途中、このまま行ったら絶対に帯那山には着かないことに氣が付く。

んもう!
絶対に今日中に行くもんねっ、帯那山。
意地でもに行くけど、ちょうど山梨市にも用事があるからそのために進んでるだけだもんね。
迷って無駄にガソリン使っている訳じゃないんだからねっ。

根がケチで無駄が大嫌いなわたしは、自分にそう言い聞かせて悔しさを紛らわせ、朝食後の再チャレンジを心に誓うのでした。

つづく

「王仁の道をゆくvol.1〜出口王仁三郎の足跡と縁の地を巡るプチ探訪〜」に行ってきた(3 )

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

昨日娘に会った時「最近のママのブログはマニアック過ぎてつまらない。普通の人にはわからない。」という鋭い突っ込みを受けました。

マニアックって。

そうだよね。
文字も多いし。
わたしだって文字ばっかりのブログ読んでると、老眼氣味の目にはツラくてすっ飛ばしちゃうことあるし。

・・ご縁を戴いて、せっかく読んでくださっている皆さん。
ごめんなさい。
マニアックっぽいところはかっ飛ばしてね。
「んもう、仕方ないから付き合ってやっか。」という方だけお読みください。

それはともかく。
苦行のようなハイキングを終えて、生暖かい連帯感が生まれたわたし達。
時間が押し迫っている中、大仏に向かいました。
もう5時になるというのにスゴイ人。
外国人の方も結構いる。

                  大仏 参加者

今日も大仏様はいいお顔。

大仏
         
ここで少し休憩して、甘縄明神社に向かいました。
ここは鎌倉で一番古い神社であり、源頼朝、足利尊氏などの祖先といわれる源義家が生まれたと伝承されています。
                甘縄明神社 階段

このあたりは源頼朝の流人時代からの側近である安達盛長の邸宅跡でもあり、九代執権北条時宗産湯井戸があります。

甘縄明神社 安達邸跡

元寇の時頑張ってくれた時宗がここで産まれたのね。
何人もの武士がこの辺で笑ったり憤ったり悩んだりしたのね。

感慨に浸るわたし。

ここの鳥居の左手に川端康成が晩年に過ごした家があります。
鳥居をくぐり、静まり返った本殿に皆で参拝。
ここでも磐笛を奏上させて頂きました。

わたしは行かなかったけれど、今回のプチ探訪は午前中オプションで横須賀の走水神社にも行ったとのこと。
走水神社は、大正5年に出口王仁三郎、浅野和三郎等が参拝し鎮魂の石笛を授かった所らしい。
奇しくも磐笛を奏上させて頂けたのも何かのご縁かも。
おまけの磐笛だけど。

このあと直会で、へとへとなはずなのに皆さん元気に情報交換に励んでいました。

とにかく今回も濃い経験ができました。
ご一緒した皆さん、ありがとうございました。

あー、疲れたけど面白かった!

おまけ:
わたしの主人の祖父に豪傑で鳴らした大吉さんという人がいた。(なんというめでたいお名前)
姑が「おじいちゃまは優秀で、大きな船の機関長をやってらして、戦争中その船が沈没した時一人だけ泳いで助かったのよ」
「港港に女の人がいて、新聞記者をやっていたおばあちゃまといつも喧嘩をしていたの」
「お給料はすごく戴いてたんだけど、お金を使いすぎて、しまいには鎌倉のお家を売り払うところまでいったんだけど、おばあちゃまの実家に取り戻してもらったの」
と、まるで偉人伝のように面白おかしく話していた。
要するに、好き勝手に生きたやり手のじいさんだったらしい。

鎌倉という土地は人間関係の密度が高く、特に昔は知り合いをたどって行けばほとんどどんな家柄かわかったと聞いている。
ということは、大吉さんは矢野祐太郎・シン夫妻のことを知っていた可能性もあるのではないか。
調べてみたら大吉さんと矢野祐太郎は7歳違い。
祐太郎が海軍を辞めたのが42歳の時、大吉さんは35歳の働き盛り。
直接は知らなくても知人を介して知っていたのではないか・・。

なんて友達に話していたら「あんた、昔良く当たるっていって視てもらったお坊さんに大吉さんの生まれ変わりって言われたじゃん。」と言われた。

げごぉ、嘘!
まじで?

・・・すっかり忘れきってたけど、そんなことがあった氣がしないでもない。
今から30年くらい前、結婚を間近に控えたわたしは、実家の近くにすごくよく当たる日蓮宗のお坊さんがいると聞き、面白がって(いつもこれだ)主人と一緒に行き、色々聞いて来た話を面白可笑しく友達に話したのでした。

「あんまり面白かったからよく覚えてるよ。」って。
わたしは全く記憶から消え去っていた・・。

記憶力のない人間は、周りに言いふらしておくと何かの時に役に立つのね。

更に大吉さんとわたし、誕生日が一日違いということも判明しました。

わたしがここの所マニアックといわれるようなブログを書くようになったのも、もしかしたら前世からの因縁からなのかもしれない。

・・ってそれより何より自分の記憶力の無さに愕然とするわたしなのでした。


つづく

「王仁の道をゆくvol.1〜出口王仁三郎の足跡と縁の地を巡るプチ探訪〜」に行ってきた(2 )

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

矢野祐太郎・シン夫妻の旧宅跡を後に、化粧坂切通しに入ります。
鎌倉の山は晴れていてもぬかるんでいることが多い。
ましてや午前中はかなり雨脚が強かったから、当然歩きにくい。

なんとか日野俊基の墓に到着。

               日野俊基の墓

『日野俊基は、1324年(正中元年)、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)が、この時俊基はゆるされた。
1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年6月3日、葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。
俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。』

こ、ここで斬首されちゃったんですね?
『太平記』によると、処刑の時「太刀影後に光れば、首は前に落ちけるを、自ら抱て伏給う」なんて書いてある。

日野俊基が斬首された翌1333年(元弘3年)、新田義貞は、巨福呂坂、極楽寺切通、そして俊基の眠る化粧坂から鎌倉を攻め、5月22日、稲村ヶ崎を突破し、東勝寺に籠もる北条高時ら一族を自刃に追い込み鎌倉幕府は滅亡するのですが。

諸行無常。
万物流転。

明治時代になると、日野俊基は倒幕の功労者として評価され、日野俊基を祭神とする葛原岡神社が創建されたらしい。

もちろんここにも出口王仁三郎は来ていたんですね。
矢野家からすぐ近くだし。

皆で手を合わせた後、葛原岡神社に向かう。

葛原岡神社

何やら音楽がなっているかと思えば、雅楽がテープで流されている。

これは必要なのか?
いや、わたし的には、やっぱ邪魔。

ここで皆で参拝。
黒川さんが磐笛を奏上する。

実はわたし達親子も磐笛を持参していたの。
ちょっと一緒に奏上させて頂けたらいいなあ、なんて思って。

で、ご迷惑かとも思ったんですが、こんな機会はあんまりないと思って、後ろの方で恐る恐る奏上させて頂きました。

三つの磐笛が奏でる音が濃い緑の中、響き渡る。
空氣が張り詰める。

が。
歳は取りたくないもの。
黒川さんや息子と違って、わたし、息が続かないの。
仕方がないよね、おばさんだもの。

ま、ちょうどいい感じでちょっとだけ三重奏になった気もしないでもない。
おばさんの肺活量の無さが逆に良い作用を及ぼしたとも考えられる。

わたしの磐笛は、息子がネットで買った磐笛のおまけについていたものだし。
おまけの磐笛。
どうなの?
ちょっと有難味に欠ける気も。

それはともかく。

葛原岡神社を後に、ハイキングコースになっている道をひたすら歩く。

今回の参加者は老若男女、様々な方が参加されている。
お歳を召した方も、素敵なスカートを着てきた方も、前日東京入りしてお疲れな方もいらっしゃる。
足元はぬかるみ、粘土のようになっている下り坂。
皆で助け合って、まるで何かの苦行のように黙々と歩く。

あっちで滑って転ぶ方、こっちで這いつくばってしまう方が続出。
傘を杖代わりにする人、蟹のように横歩きする人、手に手を取る人。
皆無口になり、緊張感が走る。

正に一蓮托生。
誰かが滑ると、芋蔓式に泥まみれになる可能性が。
もはやハイキングの面影はない。

主催の黒川さん、出口さんは氣を使われて、ホント、大変。
精神的にかなりお疲れになったと思う。

途中休憩もほとんど取らず、大仏近くの道路に下り立ったときには、皆の中には同じ戦いを終えた者たちに流れる、生暖かい連帯感が生まれていたのでした。


つづく

「王仁の道をゆくvol.1〜出口王仁三郎の足跡と縁の地を巡るプチ探訪〜」に行ってきた(1)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

昨日の午前中、やっと「6/10 麻賀多神社まで歩く 8キロ走破の巡礼に行ってきた」の記事を書き終えたわたし。
なのに午後、さらにその流れで「『王仁の道をゆくvol.1〜出口王仁三郎の足跡と縁の地を巡るプチ探訪〜」に行ってきました。

え?また行ったの?と遊び好きの婆さんをとがめるような目つきをしたあなた。
いいじゃん。
だって面白そうだったんだもん。
この際だからふんどし息子も誘いました。

しかも今回は出口王仁三郎が大正8年に訪れた鎌倉。

『希代のカリスマ 出口王仁三郎が、明治・大正・昭和の時代を駆け抜けたその足跡と、神縁深い霊地を巡るプチ探訪に出かけませんか。
相模国一宮の鶴岡八幡宮の参拝からスタートして、王仁三郎のもとを離れた後も数奇な運命をたどった矢野祐太郎・シン夫妻の旧宅跡、南朝の廷臣 日野俊基を祀る葛原岡神社、鎌倉大仏、甘縄神明宮ほかを、3時間半ほどをかけてゆっくり歩いて巡ります。』
なんて面白そうでしょ?
自転車で行けば、交通費もかからないし。

なんて思っていたらすっごい雨。
嘘・・。
ダメじゃん。交通費、かかっちゃうじゃん。(そこ?)

雨よ、止め、止んでくれ、止むに違いない。
っていうか、お願いします!

なんて祈っていたら、神様が憐れに思召したかどうかはわかりませんが、出かける直前に見事にやみました。
ありがたや。
念ずれば通ず。

早速息子の自転車の後ろにまたがり、二人乗りで鎌倉駅に向かいました。
あ、もちろん自転車の二人乗りは交通違反です。
やっちゃいけません。
わたしもちょこっとだけ二人乗りをしただけです。
ちょこっとだけ。
皆さん、くれぐれも交通費をケチって二人乗りなんかしないでね。

それはともかく。
鎌倉駅に1時半に集合し、14人で出発しました。

まずは鶴岡八幡宮に向かいます。
さすが6月の日曜日。
鎌倉は人であふれています。
                   王仁の道 八幡宮

お参りを済ませ、海臧寺のそばの矢野祐太郎・シン夫妻の旧宅跡に。
ここに王仁三郎は一週間ほど滞在し、いろいろな方と会ったりしていたとのこと。

                       王仁の道 矢野家

矢野シンさんといえば、日月神示が世に出るきっかけを作った人。
日月神示は、殆どが漢数字と神代文字と呼ばれる文字群、記号等で、通常の文字は少ない特殊なもの。
麻賀多神社で始まった自動書記の現象が出ていた時、霊現象を好まなくなっていた天明氏は低級霊だろうと考え、殆ど出るに任せて放っておいたらしい。

『その頃王仁三郎の影の参謀と呼ばれた矢野祐太郎の夫人(矢野シン)が、ある日千駄ヶ谷の友人の会合に出席した折り、突然床の間に進み出て
「八大竜王、しばしこの森に鎮まりましますー」と言ってしまい、その自分の発した言葉に驚き、会合が終わってから暫く辺りを散策する事にした。
 シン女史が 「森はこの辺りにあるだろうか?」 と探してみた所、「鳩の森八幡」を探し当て 「ああ、ここか」 と思い、中に入っていくと、社務所の中にかねてから顔見知りの天明氏が神主姿でいるではないか、シンは驚いて
「天明さん、どうして此処にいなさるの?」と尋ねてみた。
すると天明氏は一通り事情を話した後「いやぁ最近ふでが出てね」と神示を見せると、シン女史は顔色を変え「これは太神様の御真筆ですよ」と答えた。』

この後、シン女史も含めた研究者の方々によって解読されることになったらしい。
ふーむ、何だかすっごく不思議。

さらに調べてみると矢野祐太郎さんったら、凄いヒトじゃないですか。

『矢野祐太郎は、明治14年(1881年)生まれ。
矢野は築地中学、海軍兵学校を卒業後、日本海海戦では旗艦三笠に乗り組んだ海軍の超エリート。
特務任務をおび大使館付き武官として英国へ出張、そこでいよいよスパイとしての本領を発揮したり、世界的な秘密結社の本部に潜入し、そこで日本包囲覆滅計画という重大情報を手に入れたりしている。
更に帰国後、呉に独自の研究所を設立し、艦艇の改装問題に手をつけて、全世界を驚かした櫓式マストを考案したらしい。』

スゴイね。まさに海軍の鬼才。
まるで小説の主人公のよう。
と思ったら、松本清張の絶筆となった『神々の乱心』は、この矢野祐太郎がモデルとされているらしい。

そして大本弾圧、2・26事件の勃発にともなう要注意人物一掃の一環として検挙され、昭和13年に獄死してしまう。(毒殺といわれているらしい)

リアルトンデモの元祖の方は大変な目に遭われていたんですね・・。
冥福をお祈りするトンデモに片足の指の爪の先っぽを突っ込んでいるわたし。

で、このご夫婦、仲が悪く喧嘩が絶えなかったらしい。

なんかこういうエピソードを聞くとホッとするね。
突然、平面的だった小説の中の登場人物が立体的になって、隣のおじさんやおばさんみたいになってくるというか。
「日本家屋は音が外に漏れやすいから、道路から二人の罵り合いなんかも聞こえてきたりなんかして。」なんて想像するとオカシイ。

いろいろお話を伺ってだんだん回復してくる天氣の中、次なる目的地、葛原岡神社に向かうのでした。

その時、まるでわたしたちの行く手を寿ぐように(?)日本地図のような雲が現れました。

王仁の道 雲

四国はうっすらしかないけどね。
北海道もはっきりしないけどね。(それはもはや日本地図のような雲とは言わないのでは?)

そしてこの後、皆さんとっても大変だったんだけどね。

つづく
 

6/10 麻賀多神社まで歩く 8キロ走破の巡礼に行ってきた(6 )

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

岡本天明伝」の著者の黒川さんが「神棚に供えておいていざという時食べるといい」と仰っていた御土米を掃除機で吸い込んでしまう、という多分あまり人のしない失態を犯したわたし。

お土米について調べてみました。
『御土米と称して信心家が尊重する米粒ようのものが畝傍山うねびやまだの元伊勢神社だのから出るが、ある霊覚者の告ぐる所によるとこれは小槌虫一名出雲虫の糞だという。
この虫は長さ二三寸のもので土中に棲み、モグラモチなどの餌食となる。茶褐色で関西地方に多い。
虫の糞ではあるが効能はたしかにある。
即すなわち熱さまし、胸のつかえ、胃病、耳鳴りその他神経質のものに効きくそうで、三粒乃至ないし五粒を服すればよい。余あまり沢山のむと却って害になるそうである。
最初之これを尊重するに至った由来は、今より約七百年前、一人の武士が神社の床下に身を潜めて居る時、空腹の余り之これを食って其その効能に驚いたのが初まりだという。』
なんて書いてある記事がありました。

糞って。
・・そういえばネズミの〇〇に似ていないこともない。

そんなことをFBに書き込んでいたら、FBのお友達からコメントがありました。

『(ある方にお土米を渡され)榛名神社に撒いて来て欲しいと頼まれ、数日後このお土米を撒いた途端、黒雲が涌き出て雷がなり滝のような雨が降って来ました。お土米はその土地を浄化する働きが有るそうで、また一説には龍神の口から吐き出されるものであるとも言われています。』

ぎょぎょぎょ!そ、そんなスゴイお土米を、わたしったら掃除機で吸い込んだのみならず、糞扱いしてしまったのね・・。

岡本天明は鳩森八幡の富士塚から土米が出ると神示され、探してみると本当に土米が出たんだとか。
花島の富士塚からも土米が出るのは、「経綸は系統発生を繰り返す」ということらしい。

そうだったのね、とうな垂れるわたし。

それはともかく。
その時はこんなことになるとも露知らず、大喜びで富士塚を後にしました。
再び車に乗り、印旛沼湖畔で遥拝し、麻賀多神社に戻りご挨拶をして、わたし達の巡礼は幕を閉じたのでした。

印旛沼湖畔 遥拝

                      印旛沼湖畔

あー、6回もかかってしまったこの巡礼の記事。
たった一日の出来事なのに濃い出来事の連続だった。
まるで3泊4日の旅に出たかのよう。

この頃世の中には本当に色々な方がいるんだなあ、と実感している。
そしてわたしは何だかそんな方々や出来事を見聞きするのがとっても楽しい。

ともかくご一緒して下さった皆様、ご指導ご教示下さった黒川さん、本当にありがとうございました。


つづく

6/10 麻賀多神社まで歩く 8キロ走破の巡礼に行ってきた(5 )

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

「甚兵衛渡し」で主催の黒川さんが、麻賀多神社が西向きに社殿が建てられていること、鳥居の向く西の先に花島があることを説明してくれました。

花島はその名の通り昔は島だったので丸い形をした山だったらしい。
勉強不足のわたしは進学クラスに迷い込んだ補修組の劣等生のように「ほー、なるへそ。(古い)」とぼんやり頷くばかり。

当初の予定は「甚兵衛渡し」で終わりだったようですが、10人での巡礼という運命的な(?)展開もあってか、黒川さんが急遽花島まで連れて行ってくれることになりました。

岡本天明を辿る巡礼は終わり、ここからは伝説の富士塚と日本寺を廻る巡礼へ。

甚兵衛渡しを後にして対岸にある花島に向かいました。
花島はかっては弘法大師が開基した日本寺という寺があったとされるが、廃寺になったところらしい。
印旛沼のサクチ穴から龍燈が上がる伝説の場所とのこと。

目的の場所は「甚兵衛渡し」から以外に近い。
もう辺りは薄暮になっている。
日本寺に行く道は鬱蒼としていて人の入るのを拒絶しているかのよう。
黒川さんを先頭に皆黙々と歩く。

暫くすると廃寺が現れた。
隣には巨木が聳え立っている。
                    日本寺

が、目的はここではない。
雑木をかき分けて先頭の黒川さんが進む。
                   藪富士塚へ向かう

後ろから歩きながらつい「雪の進軍、氷を踏んで♪」などと歌いたくなっちゃうような雰囲氣。
そう、一つの目的に向かって突き進む年齢も性別も違うわたし達。
目的?
目的は・・実はあんまりよく分かっていなかったの。
ただ乗りで来ていたというか。

それはともかく。

手が入っていない雑木林は荒んだ心を持っているかのように、入ってくる人間を拒む。
竹や倒木や蔓によって「それ以上近づくな。」と警告するかのように。

そのせいか、黒川さんはどうやら富士塚の場所が分からなくなっちゃった様子。
とりあえず黒川さんと写真家の方が二人で偵察に行くことになった。

雑談して薄暗い木々の中で待つわたし達。
おじ様の一人が「今日は10人でしかも男女が5人ずつで陰陽という意味になる。」と仰る。

そうなの?
陰陽って・・。
大丈夫?おばさんって陰陽の中間に数えられたりしないの?

暫く待っていると、遠くの方から声がした。
富士塚が見つかったらしい。
声に向かって藪の中を再び歩き出すわたし達。

その時携帯が鳴った。
娘からだった。
「ママ、今どこにいるの?」と聞かれたが、怪しげなところに(?)あっちこっっち首を突っ込んでいる母親を心配する娘に今の状況を説明できない。

「あのね、男の人5人と女の人5人で山の中を歩いてる。んじゃ、今忙しいからまたねっ!」
この説明で理解できるとは到底思えないが、ま、仕方がない。

暫くしてこんもりと盛り上がった富士塚に到着。
倒れていた石を立て直し再建する。
ここでも磐笛を奏上し祝詞をあげる。

富士塚再建

帰りがけ黒川さんが「ここにはお土米が出る。」と言ったので皆で探すことに。
土米とは、米のかたちをした粘土質の土塊で、エネルギーの強い場所に出るんだそう。

薄暗闇の中、なにやら宝探しのように必死にお土米をさがす大の大人10人。
「あったー!」だの「見つからないーっ!」だのもうドングリを拾う小学生の遠足とあまり変わらない様相に。

                      米お土

わたしは3粒見つけることが出来ました。
やっぱねえ、日ごろの行いがいいとこういう時見つけれられるわけよ。
うん、大事だね、日ごろの心がけ。

大事にティッシュに包んで大事に持ち帰り、帰宅してから神棚にあげました。

・・で。
実は今日掃除機をかけていて、間違って吸ってしまいました。お土米。
掃除機のフィルターからゴミを出して探索したのですが・・。
見つかったには見つかったけど1粒怪しいものがある。
これだよね?ゴミじゃないよね?
もしゴミだったら。
最悪何かのフンだったりしたら。
神棚にそんなモノを供えることになってしまう・・。
ど、どうしよう。

やっぱり日ごろの心掛けが悪かったのかもしれない、とうな垂れるわたしなのでした。

つづく

6/10 麻賀多神社まで歩く 8キロ走破の巡礼に行ってきた(4 )

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

美味しい直会を戴いた後、わたし達は車に分乗して印旛沼湖畔の甚兵衛渡し(水神の森)へ行くことに。
わたしが乗せてもらったのは軽乗用車だったんだけど、無理やり5人乗る。

途中運転をしていた写真家の方が「あ!警察!」と小さく叫んだ。
とっさに車の床に這いつくばるわたし。

そう、この間運転中携帯をかけていて危うく切符を切られそうになり、一氣に血圧が上がってしまったわたしは、つい条件反射で忍者のごとくとっさに身を隠してしまったんですね。

車の中ではどう見てもわたしが最年長なのに・・。
うぅ…身についてしまった小市民根性が哀しい・・。
小学生の時自転車で二人乗りをしていて、お巡りさんがいるのに氣が付き慌てて自転車から飛び降りた時のことが走馬灯のようによぎる。
50代半ばにして車に這いつくばっているわたしは、もしや小学生の時からあまり進歩していないのでは?

そんなこんなしている内に印旛沼の湖畔に到着。
ここは「甚兵衛渡し」があったところ。

『甚兵衛という人は、佐倉惣五郎が江戸に直訴に行く際、甚兵衛が惣五郎を小舟に載せて印旛沼を渡し、対岸の吉高に送り届けました。おかげで惣五郎は、佐倉藩の厳しい監視を潜り抜けることができたのです。
 しかし、甚兵衛は既に老齢。自分のやったことが佐倉藩に見つかってしまった場合、老いた自分が牢屋に入れられてしまいます。そうなることを恥じた甚兵衛は、自ら印旛沼に身を投げ、自殺したと伝えられています。』
と書いてある。

でもネットで調べてみるとこんな記述が。

『(将軍家に直訴する前に宗五郎は大老・酒井雅楽頭に駕籠訴えをするが)酒井は宗五郎の身柄を上野寛永寺の凌雲院大僧正・お手代圓珠院に預ける(寛永寺内は一種の治外法権エリア)。
こうなれば命を捨てる覚悟で将軍家に直訴するしかない、と宗五郎に助言した圓珠院は、出入りの駕籠屋(侠客)井筒屋五郎兵衛に命じて、妻子との別れをさせるため宗五郎を佐倉へ送る。
安食の宿・島屋源兵衛という旅籠で役人の詮議を危うく逃れると、宗五郎は松崎の土手へ。
ここで渡し守・甚兵衛の義侠で舟を出してもらった(「甚兵衛渡し」)宗五郎は、自宅へ戻って妻子に別れを告げる。

 帰途、役人に見咎められた宗五郎は甚兵衛によって救われるが、甚兵衛はこの役人を殺した罪を負って印旛沼に投身して亡くなる。』

甚兵衛、凄いヒトじゃないか!
義民といわれる宗五郎の後ろには家族を含めいろいろな人たちの支えがあったのだなあ、と暫し慨嘆。

いくら正しいことだとわかっていても、実際に自分のみならず家族や他人の命を掛けてやれるかと聞かれれば・・今の日本にできる人はどのくらいいるのか?

自分の発言や行動にそこまで覚悟を持てる人がこの時代には確実にいたんですね。
頭が下がります。

戦前は佐倉惣五郎の逸話は学校で教えていて、知らない人はいなかったと聞く。
今の日本ではこうした立派な日本人の話をもっと子供たちに教えるべきだと思う。
道徳の時間に無駄な話し合いなんかさせていないで。

あー、日本のマスコミや政治家に爪の垢でも飲ませたいっ!
言いっぱなしでテンと恥じない奴らに「宗五郎さんと甚兵衛さんに謝れ!」(?)と言ってやりたいっ!!

それはともかく。
印旛沼の龍神である水神様にも祝詞を奏上し「甚兵衛渡し」を後にしたのでした。
                     「甚兵衛渡し」水神様

つづく

6/10 麻賀多神社まで歩く 8キロ走破の巡礼に行ってきた(3 )

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

麻賀多神社を後にしたわたしたち。
直会の場所は「玄米、お野菜、豆富のアンチエイジング料理とヘルシースィーツ」を謳った「美菜ダイニング NICO」というところでした。

アンチエイジング料理?
いいじゃないか!
黒川さん、ナイスチョイス!

が。
さすが女性に人気のお店、かなり待たされました。
店員さんの対応もおじさん、おばさんの大人数なので心なしかちょっと冷たい・・。
これはおばさんの僻みなの?

そして入店した後もお料理が来るまで、随分かかる。
ビールが出てくるまで30分かかった気が・・。
体にいいものを戴くには辛抱が必要なのね。

長い待ち時間を有効利用して、いろいろなお話に花を咲かせました。

皆さん、ホント、いろいろ勉強されていらっしゃる方ばかり。
ろくに知識もないのに、面白がってただ好奇心に突き動かされて来ているのは、わたしだけ。
いや、勉強になりました。

一番の収穫は、以前たまたま知り合った方から息子が大量に戴いた日月神示の資料の作者について教えて頂けたこと。

いや、少しのことにも、先達はあらまほしきことなり、ですな。

ところで麻賀多神社で12人に増えていたはずなのに、岩手から来た方ともう一人の男性が所要で帰られたので、ここに来たのは男性5名、女性5名の10人になっていました。

黒川さんと勉強会をされているおじ様が、「この10名になっていることに意味がある。」と仰います。

日月神示の中に
「三柱と七柱揃ろうたら山を開けよ。  上つ巻 二十七帖」
という件があるんだとか。

そうなの?
山を開くお手伝いをさせて頂いちゃったの?
こんなわたしがちょっぴりでもお役にたてたなら望外の喜びですが。

・・そうなの?

そういえば。
この直会の後もまだ巡礼は続くんですが、麻賀多神社にたまたま来ていて、わたし達が礼拝をしているときに後ろにいたため声をかけられた女性も最後まで参加してくださいました。

聞いてみると、なんとなく今日麻賀多神社に行ってみようと思い立ち来たんだとか。
彼女の飛び入りによって、何故か10人がキープされました。
で、帰り道で彼女に聞いてみました。
「何故あのような怪しげなグループに誘われてついてきたのか。」(いろいろな意味で失礼)と。

だって神社にゴザを引いて祝詞を唱えている集団ですよ?
ついていきますか?普通に考えて。
わたしだったら「いえ、結構ですっ!」と引きつりながら即座に答えてしまうと思う。

彼女の返事は「なんとなく。」でした。

「なんとなく。」
うん、何よりも説得力があるような気がする。

それはそうと。
いや、やっぱりキレイで可愛い女性がいると場が華やいでいいわ、とどこかのオヤジのように頷くわたし。
人間歳をとってくると中性化するというか、異性のココロも我がことのように分かってくるもの。
勉強会のおじ様達も気のせいか、何やら嬉しそう。

窓辺に一輪の花が大切なように、キレイなお姉さんも確実に周囲を和ませるものであるなあと実感したのでした。

つづく

6/10 麻賀多神社まで歩く 8キロ走破の巡礼に行ってきた(2 )

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

ようやく麻賀多神社に到着したわたしたち。
まず本殿に参拝。
境内左奥にはパワースポットとしても人気の場所となっている樹齢千三百有余年を誇る東日本一の大杉があるので、そちらに向かう。
               麻賀多神社 大杉

ここはネット上では「龍が巻き付いていた」「光の柱が現れた」「メッセージを戴いた」と何かと神聖視されているところ。
自慢じゃないがわたしにはそういった才能は全くないので、感謝をこめて拝ませていただく。

で、もちろん日月神示の下ろされたという特別な日だけあって、たくさんのトンデモな方々がいらしてました。
大杉の前ではなにやら祝詞を奏上し、空に向かって指を切っている中年の女性が。

いいね!
わたしの面白アンテナが元氣になる。

大杉の周りを気を戴きながら一周してみる。
氣のせいか大杉はお疲れのご様子。(根拠は全くない)

そりゃそうだよね。
有象無象が集まって、パワーを吸い取って行ったり、嫌なモノを吐き散らしていくんだもんね。
何だか申し訳ない感じ。

わたしが大杉だったら「ちょっ、勘弁してよ。自分の穢れは自分で何とかしてくれる?空氣清浄機じゃないんだからさぁ。」とか言ってしまいたくなっちゃうかも。
ああ、我ながら何という心の狭さよ・・。

実際の大杉は勿論そんなことを思う訳もなく、人の世の移り変わりや思いなどとは遠いところで、粛々と「ただそこに在る」という雰囲氣。

心の中でお礼を申し上げ、「天之日津久神社」に向かう。
                  天日月神社

本殿の右に石の小さな祠が立っている。
元あったところはその祠の斜め右の木のあたりらしい。
もっと大きな祠を建てようとして、途中で止めることになったとのこと。
そういえば柱の跡が残っている。

人間が何人か集まって何かやろうとすると、いろいろあるのね。

日月神示によって集まった人たちが、いつか反目しあったり、勢力争いになってしまったりする。
人の世は浅ましく、切なく面白い。

主宰の黒川柚月氏が天之日津久神社の前にゴザを敷いてくれ、皆で正座。
黒川さんがまず磐笛を奏上し、あたりの空氣を清める。
祝詞の奏上。
皆で二礼四拍手二拝。

いや、不思議な感じでした。
普通の神社だったら「え?何?あの集団。」とか怖がられるのにここでは全くの日常だと思われる。

ベンチに腰かけてトンデモ話に花を咲かせるおじさんたち。
滔々と自慢の知識を披歴している。
その話に熱心に耳を傾ける若い女の子たち。
心なしかおじさんたち、嬉しそう。

あちらには黒メガネで黒づくめの怪しいカップルが、歩き回っている。
こちらには大杉のところにいたおばさんが。

ここは正に聖地。
どんなヒトがいてもいい。

それはともかく。

ここで岩手から新幹線でいらしたという方と合流しました。
凄いなあ。
頭の中で新幹線代とタクシー代を素早く計算するわたし。

わたし達が参拝している時、後ろにいたキレイな女性に参加者の一人が話しかけ、その方もその後の直会に参加されることになりました。

何だか不思議なご縁に繋がりながら、わたし達は麻賀多神社を後にしたのでした。

つづく


6/10 麻賀多神社まで歩く 8キロ走破の巡礼に行ってきた(1)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

昨日6月10日は 今からちょうど69年前の1944年に千葉県成田市の「麻賀多(マカタ)神社」の敷地内にある「天日津久神社」にて、ある不思議な出来事が起った日。

当時画家であった岡本天明(1897年~1963年)が誰もいない社務所で休んでいたところ、突然勝手に右手が動き出し、すらすらと文字のようなものを書かされました。
これがあの有名な「日月神示」が生まれた瞬間です。

わたしが「日月神示」の存在をしったのは3・11の後。
思い起こしてみればあれからスピリチュアル遍歴(?)が始まった。
わたしの人生、「日月神示」にかなり影響を受けたような気がするの・・。

なんちゃって。
ただ面白そうなところをウロウロさせて頂いてるだけなんですが。

ということで「岡本天明伝」の著者、黒川柚月氏主催、天明さんの足取りを辿るツアーに参加してきました。
昭和十九年六月十日、岡本天明が下総松崎駅から麻賀多神社まで歩いたルートを再現して、歩いて麻賀多神社を参拝し、古を偲ぶ巡礼をするとのこと。

これは是非参加せねばっ。
いつも言うようだけど、おばさんはお金はないけど暇はあるの。

早起きをして下総松崎駅に9時22分に到着。
いや、遠いわ。
3回も乗り換えあるし。
乗り間違えたらどうしようとドキドキしちゃったよ。

やっとの思いで下総松崎駅に到着し、小さな駅のホームに降りると数人の男女がいました。

          下総松崎駅

諏訪から駆け付けた写真家、ヒーラー、日月神示の勉強会をされている方、会社の役員、主婦などいろいろな方が参加されていました。

さっそく岡本天明さんが下総松崎駅から麻賀多神社まで歩いたルートを自己紹介やらおしゃべりをしながら歩く。
田んぼの広がる白い田舎道。

なんだか懐かしい稲の匂いをかいだり鳥の囀りを聞きながら、天明さんはどんな気持ちでここを歩いたのだろうか、と思いを馳せる。
                田圃道

『日月神示(ひふみ神示、ひつく神示とも呼ばれる)とは元々、大本に入信していた画家の岡本天明氏が、自動書記によって書き記した神示と言われ、元々の発祥は昭和19年4月18日に、岡本氏が審神を勤めたフーチ(中国に伝わるT字型の機具を、二人で持ち、降霊後にそのT字の棒を使って下の砂に、文字を書き表すもの)を使う、実験会まで溯る。この実験会では、下に敷いた砂に「ひつく」或いは「天之日月神」といった神名がでるのみで、その他の成果は見られなかった。

しかしこの実験会の後に、参加者の一人が千葉県印旛群公津村台方の麻賀多神社の末社に「天之日津久神社」というのがあるのを発見し、天明氏に連絡してきた。
 一方の天明氏は「酒を飲ましてやる」という別の友人との約束があった為に、奇遇にも千葉方面への乗車切符を購入していた(この当時は切符一つ買うのに、2日もかかったらしい)

 しかし急に先方が都合が悪い、という事でキャンセルされてしまったのだが、丁度その行き先の近所に天之日津久神社があるのが判り、とにかく降霊会での御礼がてら、その神社まで詣でてみる事にした。

 当日、実際に着いて休憩を取って居ると、そこで神懸かり状態となり、生業が画家のため持参していた絵筆を使い、紙に意味の解らないものを書き殴ったのが、最初といわれている。』

だからここを歩いていた時の天明さんはその後の自分の運命も知らず、日常を離れてただ美味しいお酒のことやおつまみのことなんかを考えながら楽しく散歩していたと思われる。
知らないけど。

人生ってホント、分からない。
まさか自分がWikiに載っちゃうような、研究されちゃうような人間になるなんて思わないよね。
69年後に、ぼんやり散歩していた自分のことを考えながら大の大人が10人もぞろぞろ歩くなんて、その時の天明さんが知ったらびっくりだよね。
(ってその一人がわたしなんですが)

説明して頂きながら、二ノ宮神社、北須賀の小川家、薬師寺(麻賀多神社別当)に寄り、楽しく歩く。
さすが先達がいると同じ風景を見ても全然違うね。
                二ノ宮神社

標識痲賀多神社

天明さんの息遣いが聞こえてくるような感じ。

佐倉宗吾旧宅(麻賀多神社の七井の一つがある)では93歳のおじいさんがお話を聴かせてくれました。

                佐倉宗吾旧宅

『佐倉宗吾(本名・木内惣五郎)様は、承応2年12月に4代将軍家綱公に直訴を行いました。その頃、佐倉藩は、大変な飢饉に襲われていました。しかし当時の藩主は年貢を緩めることもなく、農民の実情を無視した過酷な検見が行われ、農民は餓死寸前の状態にありました。

 たまりかねた城下の名主達が集まって、木内惣五郎様他6人で、将軍お側用人である久世大和守様に直訴を申し出たのですが、聞き届けられませんでした。
やむなく惣五郎様は1人で4代将軍家綱公へ直訴を行う決心をしたのです。
当時の直訴の罪は重く、家族にまで刑罰が及びました。家族の身を案じた惣五郎様は直訴の前に奥様を離縁、子供達を勘当しようとしますが、奥様は惣五郎様の考えを聞き入れず、運命を共にする覚悟で離縁を拒みました。

 雪の降る中、惣五郎様は家族に別れを告げ、1人江戸へ向かいました。そして上野寛永寺で墓参りに来た4代将軍家綱公の駕籠を待ち受け、直訴を行なったのです。

 惣五郎様はその場で取り押さえられましたが、家綱公は墓参りが終わった後、惣五郎様からの訴状の内容を確認し、佐倉藩の状況を調べました。そして佐倉藩の深刻な状況を知り、3年間の減免を行いました。飢饉に苦しんでいた農民は救われたのです。

 しかし、直訴の罪で惣五郎様は、はりつけになり、子供達までが打ち首になってしまいました。のちに、佐倉藩主堀田正亮公は、1752年の百回忌のときに、当時の失政に胸を痛め、惣五郎様に「宗吾道閑居士」の法号を授けました。それ以来、惣五郎様は宗吾様と呼ばれるようになったのです。』

なんと宗吾の目の前で子供たちが処刑されたとのこと。
うぅー、立派なヒトの家族は大変だよう。

 調べていたら「ベロだしチョンマ」についてのこんな記述が。

『「ベロだしチョンマ」には、宗吾様と共に処刑された子供達の、とても悲しい話しが伝えられているのです。

処刑場で、怖がって泣く幼い妹のウメに兄の長松が「こわくねえぞ!アンちゃんを見ろ!」と言って、眉毛を下げて舌をペロっと出したのです。
長松は12歳、ウメはまだ三歳でした。
長松は普段から妹のウメが泣くと、いつもこうしてベロを出して笑わせてきたのです。長松はベロを出したまま、槍に突かれて死にました。見ていた村人達は、泣きながら笑い、笑いながら泣いたといいます。』

泣ける・・。
「ベロだしチョンマ」ってそんな話だったのね。
切ない。そして古の偉人とそのご家族の冥福を祈る。

実はこのおじいさん、天明さんと何回かお会いしたことがあるんだとか。
そっかぁ、天明さんもこの話、どんな気持ちで聞いたのかな。

そしてもしかしたらこういう義人と呼ばれる人を生む土壌が、日月神事を下ろされるもとになったのかも、と思う。

お線香を上げさせて頂き再び出発。
田舎らしい曲がりくねった道を暫く歩いていくと、麻賀多神社の裏手の天明さんが住んでいた場所があった。
                 跡天明居住

そうか、天明さん、ここに住んでいたんだね。

今は見る影もなく荒れ果てていた。
不思議なもので、69年前にタイムスリップしたかのごとく、活字の上の人物だった天明さんが、まるで親戚のおじさんのように立体的になってくる。

そうしてやっと10人で麻賀多神社に到着したのでした。

つづく






運転中は携帯禁止です

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

つい先日のこと。
夕方仕事で友人の家に車で向かっていると、小袋谷の踏切で携帯が鳴った。

「お客様かな?」と片手で携帯を耳に当てる。
話す間もなく目の端に警察官の姿が。
「巡回しているお巡りさんだ。」と思いながら、外から見えないように携帯を助手席に放り出す。
もちろんそのままお巡りさんはどこかに行ってしまう、と思っていたら。

赤信号で停まっていたわたしの車に近づいてくるお巡りさん。
「え?もしやわたしのところに来るの?」
心臓がバクバクし出す。

実はわたしは今年の3月にスピード違反で捕まったばかり。
一年違反をしなければ点数が消えるから頑張って気を付けていたのに。

今こんなところで捕まる訳にはいかないんだよおぉぉぉ!!

お巡りさんがフロントガラスをノックする。
「今、携帯を掛けてたでしょ?」
「か、掛けてません。」
「いや、もう一人が確認しているから。」
(え?巡回のお巡りさんじゃなく一時停止の取り締まりをしていたの?)
「で、でも話してません!絶対話してません!!」
鼻息を荒くして必死に言い張るわたし。

心臓はもうマックスにバクバク。
おまけに頭までガンガンしてくる。

高血圧のわたし。
もしや脳梗塞にでもなってしまうのか?
ここでわたしがぶっ倒れたらお巡りさん、慌てるだろうな。気の毒に。

「でも携帯を耳に当ててたよね。」
「そ、それは切るために携帯を開けただけです。話してませんっ!」
「着信がありますよね。携帯を見せて下さい。」
心の中で舌打ちしながら携帯を差し出すわたし。

「これ、48秒通話になってますけど。」
「切るときに座席に放り出したのでちゃんと切れてなかっただけです。話してません!!」

いや、おばさんが開き直った時の腹のくくり方はスゴイ。
とにかく言い張れるだけ言い張る。

どうやらお巡りさんもあきれた様子。
ハンドマイクを使って、同僚に相談を始めた。
「本人は話してないと言ってるんですが。」
あとは何やらヒソヒソと聞こえない声で話し合っている。

神に祈るわたし。

「じゃ、今回は警告ってことにしておきます。これからは気を付けて下さい。」
そう言い残しお巡りさんは去って行きました。

神よ、あなたはわたしをお見捨てにならなかったんですね!
ありがとうございます!!!
そして警察官の皆様、日本の平和と安全の為に一生懸命働いてくださってありがとうございます。

どうやら頑強に言い張るおばさんをこれ以上相手にしても時間の無駄と思ってくれたらしい。
人間、いざという時は底力が出るものなんですね。
・・まあ、そんな底力、人生の無駄という気もしないではないが。

その後車を走らせたが血圧が急上昇したせいか、頭痛が収まらない。

どこか血管が切れてしまったのか?
もしこのままここで絶命したらどうしよう。
・・まあ、楽しい人生といえるのではないか?
ふんどし息子はまだ人生のパートナーを得ていないからそれだけは心残りだな。

などと下らないことを考えながら、仕事を終え帰宅しました。
血圧を測ると173-107。
見事に高い。

帰宅したふんどし息子に血圧を下げるための鍼を喉と足に打ってもらったら146-93に見事に下がりました。
持つべきものは鍼灸師の息子。
叱られたけど。

その後FBにこの出来事を面白がって書いたら娘にも叱られました。
とほほ。

つづく



「古事記サミットin鎌倉」に行ってきた

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

歳と共に好奇心に忠実になってきたわたし。

昨日は「リアル古事記サミットin鎌倉~古民家で日本のルーツを発掘しよう~」というイベントに参加してきました。
おばさんはお金はないけど暇はあるの。(あ、わたしだけ?)

わたしがこのイベントを知ったのはFBのお友達に「阿波古事記研究会」の方がいたから。
時々記事を読ませて頂いていたので、全くの門外漢だけど面白そう!という単純な動機で行かせて頂くことになりました。

北鎌倉の古民家で行われたこのイベント、1時から19時までの長丁場、しかもお食事つき。
参加費3500円。

お散歩がてら歩いて行ってみると、古色蒼然とした門の中に素敵なお家が。
かっこいい!

参加者は全部で35人ほどで、三分の一は地元鎌倉の人達でした。

1.上巻(うえつまき):日本の神々とルーツ13:00~15:00

クリエイティブディレクターのオキタリュウイチ氏は「古事記は、私たちのための「問題解決の参考書だ!」というテーマで話され、とても面白かった。

このオキタ氏、スゴイ方だった。

オキタ リュウイチ/「生きテク」代表
毎年、自殺者数は3万人を超えるという現状を変えるために、生きるテクニックを公開する「生きテク」が立ち上がった。「自殺のテクニック」ではなく、「問題解決のテクニック」を分類して公開することによって、自殺を激減させようというポジティブな仕組みだ。
「生きテク」を考えだしたのは、ポジティブなメディアを作ることにより社会的課題を解決しようと挑むオキタ氏。
彼は以前、100個いいことをすると願いが叶う「ヘブンズパスポート」というツールで、15万人の中高生にゴミ拾いやお年寄りに席をゆずるなど、ゲーム感覚で「楽しくいいこと」を行動させ、「キレる17歳」というメディア報道を一年半で無くしたという実績を持っている。

オキタ氏は3・11のあと、日本を見直し始め、日本の歴史を考えた時、結局古事記に行きついたというお話。

マジ、感動しました。
ここのところ絶望的なな情報ばかりで鬱気味だったけど、日本もまだ大丈夫かも知れない、という希望が湧いてきました。
おばさんは両手を握りしめてお礼を言いたくなっちゃいました。
迷惑だろうけど。
ありがとう!!

・・ここだけの話、ちょっと狩野英孝に似ていました。

その後の阿波古事記研究会副会長の三村隆範さんが「眠る古事記の真実」というテーマでお話をされました。
要するに古事記の舞台は阿波であり、もちろん高天原も四国にあったということ。

出雲は「伊の国の面」からできた「伊津面」であり、今の出雲大社は古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称したんだとか。
何でだ?

とにかく「そ、そうだったの?」ということが満載。
説得力が半端なく、あらゆる角度から検証されていて「なるほど!」と頷くことしきり。
古事記のストーリーを順に追って地名があるというのは他の所にはないことだとか。

古代の人は世界観だって今と違うんだし、今の日本全体を見たがるわたしたちとは感覚が全く違うというのは確かだと思う。

それに現代の学者がいっていることやWikiに書かれていることが真実かと言えばそうでもないような気がする。
戦後隠されたことも多いと聞くし、故意に隠ぺいされていることもあると思うから。

三村さん、わざわざ徳島からいらして下さったらしい。
ロマンスグレーで素敵なおじ様だったけど、ちょっとお疲れだったご様子。
精力的に活動されているようですがお体に気を付けて頂きたい。

その後の古代史研究家で映画プロデューサーの坂井洋一氏のお話も面白かった。
学校では日本は古代文字がなかったと教えられるけど、実は神代文字というものがあった、ということはわたしも知っていた。
坂井氏によると、今、世界の言語学者が神代文字の研究をし出しているんだそう。
何かあるのか?

2.中巻(なかつまき):日本人らしい働き方とは?日本のルーツに学ぶ仕事術15:15~17:15

日本味育協会代表の宮川順子氏と語源ハンターで放送作家のわぐりたかし氏がお話をされた。
宮川さんの「旬のものを食べればいい」というシンプルなお話、とっても良かった。
旬のものは強いから、地面にある良くないものを取り込まないんだとか。

サプリは腎臓や肝臓に負担を強いるものって、なんか分かる。
ちょうど調味料から良いものに切り替えていこうと思っていたから、とてもいいタイミングでいいお話が聞けた。

わぐりさんのお話は日本語の面白さを再認識させてくれた。
お話も軽妙で楽しかった。

3.下巻(しもつまき):そして現代へ~古民家で大懇親会17:30~19:00

ケータリングの美味しいお食事を囲みながらの懇親会は個性的なヒトの溢れる場だった。
会社の社長さんとか、webデザイナーの方とか、建築デザイナーさんとか。
いろいろな方とお話をさせて頂いて、トンデモ話をしていても地に足がついているような感じがしてとてもいい。
そして若い方々が真剣に日本のことを考えていることに感動。
おばさんは嬉しいよ。

で、お酒を飲んでたら「あのー、以前お会いしたこと、ありますよね、」と話しかけられた。

誰?
全然わからない。

そしたら去年、初めて出たワークショップで麻の炭を販売していた方だった。

あー、驚いた。
世間って狭いね。
いや、この間もこんなことがあったっけ。
この世界は案外狭いのかも。

結局9時過ぎまで話し込み、楽しい夜は終わったのでした。


いつも思うんだけど、こういうイベントって、主催者の方は持ち出しになってしまうんじゃなかろうか?
満員御礼でも赤字か、良くてとんとん、とか。
「人生、お金じゃないよ」を実践されている方ってこの世界、多い気がする。

日本はまだまだ大丈夫。
こういう人たちがいて、それに続く若者もいる。

そう実感させてくれた一日でした。

つづく





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マキおかん

Author:マキおかん
気が付いたらキャンプ場をやっていたマキおかんです。

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