夫の18回目の命日とふんどし息子(2)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

いよいよ夫が最期の時を迎えた瞬間、「え、パパ、死んじゃうの?」と驚いたように叫んだふんどし息子。
今度はわたしが驚く番だった。

わたしは息子が今の状況を分かっているとばかり思い込んでいた。
夜、急に病院に呼び出され、廊下には親族が集まり、ICUの前でひそひそと暗い顔で会話を交わしていた。
さらに集中治療室の中にも息子は一緒に入り、酸素マスクをしている夫の姿も見ていた。

だからことさら説明なんかしなくても理解しているとばかり思っていたのだが、実際は違った。
親の言うことをひたすら信じ、真に受けていた息子にとって、どんなものを見聞きしても、父親が亡くなるなんてありえないことだったのだ。

確かに主人が検査入院する時、わたしは息子に言った。
「パパは少ししたら良くなって帰ってくるよ」

息子は単純にその言葉をひたすら信じ、待っていた。
「親がそう言ったんだからよくなるんだ」と無邪氣に思い込んでいた。

飼い主の帰りを待ちわびる子猫のように。
愚直なまでに真面目に、真っすぐに。

主人が亡くなってから6年ほど経ち、夫の亡くなった前後の話を笑いながらできるようになったある日、当時の思い出話を家族でしていた時のこと。

「いやー、でもあの状況なら普通分かっていると思うよね。あのタイミングで『え、パパ、死んじゃうの?』って言い出したからびっくりした」と、わたしが言うと「そうだよね。普通分かるよね」と、娘。
「そんなの、わかるワケないだろ。死ぬなんて全く思っていないんだから。絶対帰ってくるとばかり思い込んでたんだから!」と、ふんどし息子が怒りながら言った。
「ま、お姉ちゃんもサンタを中学生まで信じてたしね。さすが姉弟だね」と、笑ってこの会話は終わった。

が。
この時の会話でも、ふんどし息子はいたく傷ついたらしい。

そして「父親は帰ってくる」と思い込んでいたふんどし息子は、どうやら無意識のうち、何年経っても父親を待っていたらしいのだ。
待って、待って、待ちくたびれて、寂しさと悔しさに打ちのめされた息子は、いつまでも帰ってこない父親に「許さないぞ」と思うようになっていた。
いつまでたっても帰ってこないご主人に、寂しさのあまり拗ねて爪を立てる可哀想な子猫のように。

主人が亡くなってから、いろいろなことが津波のように押し寄せた。

同居していた義母とは当初仲良く暮らしていたが、借金癖のある嫁のせいで容赦ない取り立てが会社にまで来ることに悩んだ義兄に土下座され、義母は年金を担保に入れ借金をしようとした。
以前から義母のなけなしの老後の貯金をむしりとるように借りに来た義姉だった。
そのお金が返済されることはほとんどなかった。

義兄と世間体を大事にする義母は、さらに家を売ってお金を捻出しようと考え、わたし達に家を出て行ってほしいと言い出した。
義姉を嫌っていた義母であったが、頼りになる次男がいなくなった今、拠り所になるのは夫の兄である長男だけになってしまったようだった。

同居したのは、夫を亡くした義母に懇願されたことがきっかけだった。
若いころから義父に守られ、仕事を持ったこともなく、誰かしらに頼っていないと不安でしょうがない義母。
心細がる義母のため横浜のマンションを売り、夫の実家のある鎌倉で暮らすことにしたのだった。

だからそうそう簡単に家を出るわけにはいかなかったし、「できるだけパパが生きている時と同じ生活をしよう」と子ども達に言っていたわたしに、頷けるはずもなかった。
しかも年金を担保にお金を借りようとするなんて、理解の域を超えていた。
氣が狂っているとしか思えなかった。

義母をも守っているつもりでいたわたしに、ある日突然地方裁判所から通知が届いた。
同居している義母が原告になり、わたしを訴えたのだった。

驚きあきれ「なぜ家裁じゃなくて地裁なんですか?」と尋ねるわたしに「家裁で相談したら『お嫁さん、可哀そうじゃないですか』って言われたから地裁に持って行ったの」と義母は答えた。

原告である義母達は弁護士を立てたが、そんなお金も人脈もなかったわたしは、調べながら自力で答弁書を書き上げた。
ヤケクソになり、「どうせだったら楽しまにゃイカン!」とパソコンに向かい、娘や息子には包み隠さず話すようにした。
(娘はこの時「ケッケッケ」とにやつきながら答弁書を書いていたわたしの姿をはっきりと「覚えているそうな)

結局裁判は地裁から家裁に移され(そりゃそうです。隣の案件は殺人でした)調停は進み、子ども達の精神状態を守るためにも、わたしは引っ越しを考え始めた。

この頃、義兄は切羽詰まっているようだった。
わたし達を追い出し、早く現金が欲しいらしかった。
それにはわたしが邪魔であり、目の上のタンコブのようなものだった。
時に声を張り上げわたし達の部屋に押し入ろうとしたため、わたしが「警察を呼びます!」と声を荒げる場面もあった。
義姉も義母も見てみないふりをしていた。

「弟が生きているんならともかく、いないんだからすぐに出て行け」というのが彼の主張だった。
修羅場の中でも「一流の大学を出てきちんとした企業に勤めていても、この人は愚かで可哀そうな人だな」と、目を吊り上げて叫ぶ義兄の顔をぼんやりと見ているわたしがいた。

義兄や義母の話を真に受けた親族から親族会議と称するものに呼び出され、10人近くに囲まれ迫られたこともあった。
主人の生前「(義母の面倒を)よく見てくれてありがとう」と言ってくれていた人達だった。
血のつながる主人が亡くなった今、彼らの中でわたしは「夫の実家に居座り続ける金目当ての嫁」になっていた。

人間の見方や価値観なんて一瞬で変わる。
当てにできないものだな、と心底思った。

その一部始終を見ていた娘は過呼吸になった。
義母の杖を突くコツコツという音を聞くと、症状が出るようだった。

息子もダメージを相当受けていた。

自分を一番可愛がっているはずの優しいおばあちゃんが、父親を亡くしたばかりの自分達に「出て行ってくれないかしら」と、謳うような口調で自分の母親に迫り、優しいと思っていた親戚達が掌を返したように態度を変えたのだから。。

時々猛烈な腹痛を訴え、病院に連れて行くと小学生でありながら痔になっていた。(こんな場面でも何故かオカシミのあるふんどし息子)

もう迷っている時間はなかった。
この家にいても「パパが生きている時と同じ生活」はできるはずもなかった。
わたしは引っ越し代だけ請求し、主人の実家を引っ越すことにした。

引っ越しが決まったころ、原告側の弁護士と連絡を取る必要があり、電話をした。
相手側の弁護士ということもあり、我が家では「ぬらりひょん」と命名し、嫌っていた。

話の切れ間に「いやー、僕も酷い目に遭いましたよ」と言って、自分に起きた出来事を語りだした。
どうやら仕事上裁判の経緯を知ったぬらりひょんは、原告側の弁護士でありながら、被告であるわたしに少々同情してくれたらしい。
経緯はわからないが、そのことを察知した義母や義兄達が、わたしとぬらりひょんの関係を疑ったとのこと。

?!
思わず爆笑してしまったわたし。

いやー、お氣の毒。
何が悲しくて弁護士ともあろうものが、被告のおばさんとそんな関係にならんといかんのじゃ。
・・・それはそれでちょっと面白いけど。

どう考えたらそんなゲスイ発想できるんですかね?
ろくに話したこともないのに、いったいいつ、どうやったらそんな関係になれるんですかね?

是非、教えて頂きたい。
そしてわたしってそんな凄腕未亡人に見られたってことなんですかね。

世間知らずで料理好きだった義母は、その後、義兄家族と同居したがうまくいかず老人ホームに身を寄せ、そこで亡くなったと人づてに聞いた。
弱くて可哀想な人だった。
年を重ねた今であれば、もっと義母の氣持ちに寄り添えたかもしれない、と思う。

まあ、これ以外にもわたし自身も過呼吸になってしまうような出来事が、雨アラレのようにいろいろありました。
疾風怒濤の日々でした。

「一匹狂うと百匹狂う」はホントですな。
こうして何かあると「命取られるわけじゃなし」とうそぶくような、したたかでしぶといおばさんが出来上がったワケで。

それはともかく。

昨夜、ふんどし息子と話をしていて、驚いた。
「救急車が来た時、自分は学校に行っていた」と思い込んでいたからだ。

10歳の息子にとって、記憶の改竄をせざるを得ないような、ブランクアウトしてしまうような、あまりにショックな出来事だったのだと、改めて感じた。

そうだよね。
パパが大好きだったもんね。
皆でたくさん思い出を作ったよね。

でもあれから18年経って、自分の心を冷静に見ることができるようになった君がいる。
君の中の「待ちくたびれて怒り出してしまった10歳の君」に伝えてほしい。

お別れをちゃんと言わせてあげなくてごめんね。
心の準備をさせてあげられなくて、悪かったね。
急に大事な人がいなくなってしまって、つらかったね。

寂しかったね。
悲しかったね。
                                  IMG_3259_convert_20171112120101.jpg

でも、あれから君は頑張って、乗り越えて行くんだよ。
少し時間はかかるけれど。

そして自分の手で、重くて軋む扉を開けて、大人になる。

涙を拭いて、自分を信じて頑張れ、ふんどし息子!!

つづく

スポンサーサイト

夫の18回目の命日とふんどし息子(1)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

昨日は夫の18回目の命日だったので、朝8時頃ふんどし息子と建長寺でお墓参りをし、甘いものが好きだった夫を偲びつつ、大町の老舗和菓子屋「大くに」で麩菓子やらワッフルやら大福を買い、お供えをしました。

3日ほど前のこと、お風呂から出てきたふんどし息子が「オレが恨んでたの、オヤジだった」と呟いた。

実はふんどし息子、以前から「許さないよ」という口癖があり、大人になって、ふと「オレ、いったい誰を許せないんだろう」と思い始めたらしい。
数週間前にわたしがアクセスバーズというヒーリングセラピーをやってあげた際、その施術の中で「(ふんどし息子が)許せないのは誰か」という問いをし、「いつかその答えが下りてくるから」と話していた。

その答えが入浴中、突然下りてきたのだという。
それが、本人が思ってもみなかった「18年前に亡くなったオヤジ」だったので、大変驚いたらしい。

主人が亡くなった時、ふんどし息子は小5、娘は高1だった。
二人で学習塾を営み、合間にマキオカネイチャークラブを作っていたわたし達の生活は根底からひっくり返り、ここぞとばかりに噴出した人生の荒波に揉みしだかれ、わたしは育ち盛りの子どもを抱え、茫然と立ち尽くすばかりだった。

が、立ち尽くしてばかりはいられない。
わたし達は生きていかなければならなかった。
子ども達に「パパが生きている時と同じ」生活をさせてあげたかった。

最初に主人の異変に気が付いたのは2000年6月くらいだった。
半年前ぐらいから「指先が痺れる」と言って「手根管症候群」と診断を受けていた主人が、マキオカで水を引いていた沢に黒パイの様子を見に行った後、苦しそうに胸を押さえていた。
ダイエットもしていないのに体重が減ってきたので心配になり、7月に病院に行き白血病の疑いがあると言われた。
8月に検査入院し、やっと月末に結果が出た。

「アミロイドーシス」という難病だった。
「アミロイド」と呼ばれる蛋白が全身の臓器の細胞外に沈着する疾患で、日本では特定疾患に指定されていた。

「明日亡くなるかもしれないし、10年後になるかもしれません。この先の予後はまったくわかりません」
病院の白い会議室で、年配のドクターが病状の説明をしてくれた。
隣に座っていた研修医が氣の毒そうにわたしから目を逸らしていた。

夫にはドクターから話してもらうよう頼み、わたしも同席した。
説明を聞く夫の顔が、みるみる紙のように白くなった。
二人になった時、一緒に泣いた。

夫婦で「この先どうなるかわからないのであれば、家族にはまだ話すのはやめよう」「後悔のないよう好きなことをできるだけやろう」と、話し合った。
マキオカが大好きな夫は、しょっちゅう病院を抜け出しマキオカに泊まりに行った。
11月に入り家族でサイパン旅行をし、亡くなる3日前に帰国した。

                     IMG_3262_convert_20171112120121.jpg


サイパンで夫はふんどし息子に「しっかりしろ!」と、何度も言った。
これから言えなくなるであろう分まで、何度も繰り返した。

10日の夜、仕事から帰ると、家の前に救急車が停まっていた。
胸がドキンとなり家に駆けこむと、玄関先に主人が座り込み、救急隊員が取り囲んでいた。
苦しくなった夫が娘に救急車を呼ぶように頼んだのだという。
娘に救急車に同乗するように指示し、不安そうにしている息子は同居していた義母と留守番するように告げ、わたしは車で救急車の後をついていった。
出がけに夫は義母に「おかあちゃん、ごめん」という精一杯の言葉を残した。

救急病院で入院手続きをし、娘を帰宅させ、わたしは処置室の主人に付き添った。
呼吸が苦しそうだったが「大丈夫。付いてるからね。一緒に頑張ろう」と言いながら、手を握るしかできなかった。

病院のトイレの中で、泣きながら「頑張れ、わたし」と繰り返し呟き、折れそうになる自分を励ました。
経営していた学習塾の生徒達のご家庭にも連絡しなければならなかった。

ドクターと相談し、万が一を考え、翌日救急車で湘南鎌倉総合病院に転送して頂いた。
主人の意識はしっかりしていたが、夕方ドクターから「ICUに移って頂きます。ご家族を呼んだ方がいいと思います」と告げられた。

ふんどし息子、娘、義母を友人に連れてきてもらい、主人の兄家族、わたしの親にも連絡した。
ドラマのように、ICUの前の廊下に親族が集まっていた。

お別れは近づいていた。

親族が少人数づつICUに入り、手を握ったり、言葉をかけた。
わたし達家族も何度かICUに入れてもらい、主人の様子を見せてもらった。
酸素マスクをつけられ、体には何本も管が付けられていた。

わたしの身内には帰ってもらい、義母、ふんどし息子、娘、主人の兄家族が待合室に、まんじりともせず座っていた。

わたしはこの時、氣づかなければいけなかったのだ。
ふんどし息子の様子に。

この状況で、ふんどし息子は従兄とゲームで遊んでいた。
「少し寝ていいよ」と言われ、長椅子でウトウトと寝ていた。

主人の心音が弱くなり心臓マッサージが行われ始めた。
ドクターに別室に呼ばれ「今、ご主人は水の中で溺れているのと同じ苦しい状態です。どうなさいますか?」と聞かれ「楽にしてあげてください」と答えた。
最期の時間、家族皆が主人のベッドを取り囲み、手を取ったり声をかけたりし出した。

その時、初めてふんどし息子がハッとした顔をして「え、パパ、死んじゃうの?」と驚いたように叫んだ。

え?
わかってなかったの?

つづく

孫達のマキオカ初体験(2)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

せっかく鹿ショックから抜け出せそうだったのに、万力公園で飼われている鹿を見て再びブルーになった王子。
氣を取り直し、笛吹川フルーツ公園に連れて行く。

笛吹川フルーツ公園は、万力公園から車で10分ほど。
ここは富士山と山々、その麓の甲府盆地が一望でき、景観が素晴らしい。
一年を通して様々なフルーツや花・木を楽しむことができ、広場や遊具、敷地を巡回するロードトレイン等、楽しみどころが盛りだくさんの施設。

無料で楽しめるアクアアスレチックは子ども達に大人気で、この日もたくさんの親子連れで賑わっていた。
滝にうたれたり筏を渡ったり、どのお子さんもとっても楽しそう。

あいにく水着は持ってきていなかったが、孫達もパンツとTシャツになり、ジャブジャブと水の中へ入っていく。
王子はユラユラ揺れる橋を歩いたりボールにまたがったりして、夢中になって遊んでいる。
小王子はママに抱かれて水遊びを堪能している。

子どもの笑顔って、ホントに可愛い。
特に我が孫の笑顔は。
(婆馬鹿ですが、なにか?)

30分ほど遊ばせた後、まだ遊びたそうな王子を「これから温泉に行くから」と言って着替えさせ、笛吹川フルーツ公園を後にした。

それはそうと。

実はここにその時の写真を載せようと思ったが、娘から却下された。
「顔もそんなにはっきり写っていないのに、なんで?」と尋ねると「パンツ姿だから」という返事が返ってきた。

4歳男児のパンツ姿にすら氣を遣わなければならないとは。
そんな時代になっているのね。
ああ、昭和は遠くなりにけり・・・。

それはともかく。

そろそろお腹が空いたというので、わたしがよく行く塩山の「そば丸」に連れて行く。
ここは自家製粉のこだわりの蕎麦と地元食材をつかった料理が人気の、山梨市周辺では知る人ぞ知る蕎麦店。
新潟県から移築した趣ある店内は、塩山の自然の中に溶け込み落ち着いた雰囲気だ。

いつもは行列ができているのだが、ちょうど閉店間際ですんなり入ることができた。
わたしと娘は海老天丼ともりそばのセットの海老御膳、王子はワサビ付きのもりそばを注文する。

お腹が空いたのか、お蕎麦を一人前ぺろりと平らげた王子。(もちろんワサビは大人たちが戴きました)
お腹を一杯にした後は、マキオカネイチャークラブのすぐそばにある皷川温泉へ向かう。

1歳9か月ながらオムツの取れている小王子も、無事一緒に温泉に入ることができた。
さすが将来有望な我が孫(何も根拠はないが)。

小王子は娘に任せ、わたしは王子と一緒に浴室に入る。
体を洗った後、早速露天風呂に。

始めこそ手をつないで入っていたが、次第に慣れてきて、お湯の中を楽しそうにひとりで自由に歩き回る王子。
かわゆいのう。

次はジェットバスや泡風呂がある内風呂に連れて行く。
ここでも心配なので、手をつないでゆっくり入る。
しばらく一緒に歩いていたが、慣れたようなので手を放し「じゃあ、こっちの泡の立っている方へおいで。」と言って振り向くと。

あれ?
王子の顔半分がお湯の中に沈んでいる。
手を救いを求めるようにこっちにまっすぐ伸ばしたまま、目が「助けて!」と必死に訴えている。

どうやらジェットバスの水流のため、体重の軽い王子は体が不安定になり、湯船の中で足を取られたらしい。
急いで駆け寄り抱き上げると、しがみついてきた。
地元のばあちゃん達の汗と垢の混じったお湯をしたたかに飲んだ様子。

こんなことで王子を温泉嫌いにしてはイカン!
「びっくりしちゃったね。大丈夫、大丈夫。」と宥め、抱っこしたまま泡の立っているところに行き「あーぶくたった、煮え立ったぁ。煮えたかどうかぁ、食べてみよ。パクパクパク。」と歌いながら豆を食べるマネをすると、やっと元氣が出たらしく笑顔になった。

その後も、露天風呂や内風呂を行ったり来たりしながら温泉を堪能した王子達。
マキオカネイチャークラブに帰り着いた頃は、日もとっぷりと暮れていた。

一日中遊びまわって疲れていたのか、王子達は楽しみにしていた花火もせずにすぐに眠りについたのだった。
よかった、よかった。

2歳にならない小王子はともかく、4歳になった王子には今回のマキオカでの出来事は、しっかり心に刻み付けられたに違いない。

木のブランコに乗ったり、沢歩きをしたり、桑の実を食べたり。
アスレチックをしたり、水遊びをしたり、美味しいお蕎麦を食べたり、温泉に入ったり。

マキオカネイチャークラブのいい思い出がたくさん残るといいね。

が。
帰宅する車中で、王子に「パパにマキオカのどんなお話をするの?」と尋ねると「鹿のこと。」との返事。
・・・。

数日後、ふんどし息子が王子に「この間マキオカに行ってどうだった?」と尋ねたら、やはり「鹿がいたよ。」と一言。
・・・。

まあ、ことほどかように子どもにいい思い出を作るというのは難しいものですな。

                              IMG_2864_convert_20170705140221.jpg

※大嶽山那賀都神社が新しいHPを作ったのですが、検索しても全然上がってきません。
どうやらヒット数が伸びずネットの海の藻屑と消えそうです(涙)。
言い出しっぺのわたしとしては、責任を感じております。
できましたらポチっとご協力お願いいたします!

大嶽山那賀都神社正式HP


つづく

孫達のマキオカ初体験(1)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

先日、マキオカネイチャークラブに初めて孫がやってきました。
いつか4歳と1歳9か月の孫達にわたしのやっているキャンプ場を見せたいと思っていたので、ハイシーズンの前の先週、娘と孫達をマキオカに連れて行ったのでした。

今回の旅は孫達にとって初めて尽くし。
3時間も車に乗るのも初めてなら、高速道路を走る車に乗るのも初めて。
助手席のチャイルドシートに座っている4歳の孫(以下、王子)は、大人しく景色を眺めているが、ワクワク感が運転しているわたしにも伝わってくる。

マキオカネイチャークラブに到着すると、王子の目がキラキラ輝き、とってもうれしそう。
かわゆいのう。

センターハウスへ入ると、興味深げに1歳9か月の孫(以下、小王子)が、部屋の隅々まで探検し始めた。
王子は外に飛び出し、待望の木のブランコに乗る。

慎重派の王子は、一人でバランスを取って乗るのは難しいと悟ったらしく、ママと一緒に乗ることにしたようだ。

                         IMG_2852_convert_20170628112833.jpg


次は皆で沢へ探検に行く。
沢に下りる傾斜はツルツル滑り危険なので、動物除けの柵に掴まりながらゆっくり下りるが、王子にとっては初めての大冒険だ。
小王子はママに抱かれて、やっとのことで下り着いた。

水辺を歩いていた王子は、木漏れ日にキラキラ光る小川に手を入れてみる。
初めて触る沢の水の冷たさに驚いた様子だ。

緑に染まった渓谷で、木漏れ日に負けないくらいキラキラ笑う王子と小王子。

辺りにせせらぎの音が響き、谷間に風が爽やかに吹き抜ける。
小王子もママと一緒に、沢沿いの道を楽しそうに歩いて行く。

                             IMG_2853_convert_20170628112847.jpg

しばらく行くと、小さな社のところに軽トラックが停まっているのが見えた。
中から同じ集落のSさんとKさんが降りてきた。

「お孫さんけえ。鹿が取れたから見ろし。」と、にこやかに仰った。
見ると、軽トラの荷台に大きな鹿が横たわっている。

鹿に付いた血に氣が付き、凍りつく王子。

王子には刺激が強過ぎたか?
挨拶もそこそこに、王子達の手を引き、立ち去るわたし達。

しばらくすると、王子が「ねえ、あの鹿死んでたの?」と尋ねてきた。
「うん、農家の人が一生懸命作った野菜を鹿に食べられちゃったから、罠を仕掛けたらそれにかかったんだね。」と答えると「そうなんだあ。」と呟いた。

またしばらくすると、「ねえ、あの鹿死んでたね。」とポツリと呟く。
よほどショックだったらしい。

氣持ちを逸らそうと、道端に生えている桑の木から真っ黒に熟れた桑の実を選び「ほら、桑の実があるよ。これ、食べられるんだよ。」と言って渡す。
「洗わないの?」と怪訝な顔をしたが、「洗わなくても大丈夫。食べてごらん。美味しいよ。」と言うと、素直に口に運ぶ。
「美味しい。」
「そうでしょ?今日は初めてのことがたくさんあったね。高速道路を走ったり、桑の実を食べたり。」
「うん、あのさ、鹿が死んでたね。」
どうしても鹿から離れられない王子。

氣を取り直し「さあ、今日はたくさん遊ぼうね!」と言って、万力公園へ連れて行った。
万力公園は「万葉の森」とも呼ばれ、松や雑木を生かしてつくられた約14ヘクタールの都市公園だ。

公園の名称である「万力」という地名は、その昔、隣接の笛吹川の氾濫に対し「万人の力を合わせたような強固な堤を築けるように」との願いをこめて名付けられたんだそう。
見事な自然林の中に、ふれあい動物広場、芝生の広場、ピクニック広場、バーベキュー広場などが点在する。
無料で利用でき、幼児を連れていくには絶好の場所だ。

夢中になって、遊具で遊ぶ王子と小王子。

                                   IMG_2854_convert_20170628112903.jpg


ふれあい動物広場に行くと、ヤギやカピバラ、ベネットワラビー、アライグマなどがいる。
「かわいい!」と駆け寄る王子。

「愛いヤツよのう。そろそろ鹿ショックから抜け出してくれたようだし。よかった、よかった」と思いながら王子と手をつないで先に進むと。
「あ、鹿。」

柵の向こうにつぶらな瞳でこちらをじっと見つめ、微動だもしない鹿たちの群れが。

「・・・鹿、捕まってたね。」
再び呟く王子。
「う、うん。」

鹿たちに遠い目を向ける王子の氣持ちを盛り立てるために「さあ、そろそろフルーツ公園に行こうか!」と、わざとらしいくらい元氣な口調で話しかけるわたしなのでした。

つづく

子孫の(うみのこの) 弥栄継ぎに(いやさかつぎに) 栄えしめ給へと。

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

最近、わたしは小さな虹の光の中で目が覚める。
娘が母の日にくれた、スワロフスキーで作った手作りのサンキャッチャーのお陰だ。

                           IMG_2829_convert_20170619143155.jpg


サンキャッチャーとは、太陽の光を部屋にたくさん運びこむアクセサリー。
欧米ではこの「Sun Catcher」を窓辺に吊り下げる習慣があり、「レインボーメーカーRainbow Maker」とも呼ばれ、光のインテリアとしても人気があるんだそう。
風水的にも部屋に太陽のエネルギーの光を与えて、邪氣を払うという。
娘の愛のパワーで、我が家の邪氣は雲散霧消するに違いない。

わたしのブログには頻繁にふんどし息子が登場するが、上に5歳離れた姉がいて、4歳と1歳の男の子の子育て真っ最中だ。

その孫達が可愛いのなんのって。

4歳の孫は性格も優しく穏やかで、幼稚園では人気者でお友達もいっぱいいるんだそう。
登園するとお友達が数人(女子多し)が駆け寄ってくるんだとか。
幼稚園と習い事のバレー教室では「王子」と呼ばれているらしい。

・・・おかしい。
うちの娘と息子は、揃って幼稚園が大嫌いだった。
集団生活が苦痛で、登園時間になるとテーブルの脚にしがみついて、泣いて嫌がった。
幼稚園から帰ってから遊ぶ相手を見つけるのに苦労するような子ども達だったのに。

小・中学校でも「親しいといえる友達をいかに作るか」「グループ分けでいかにしてあぶれることなく立ち回るか」等、人間関係で落ち込んだり悩んでいる姿をしばしば見かけた。

最終的には「一人で大丈夫だと腹をくくれば、学校で怖いものなんてなくなるっ!」というわたしの無茶苦茶な理論を押し付けられ、悪戦苦闘しながら不安定だった時期を乗り切ったのだが。

同じ血が流れているはずなのに、この違いは何だ?

1歳9か月になる下の子は、早くもオムツが取れそうだという。
上の子に比べると、きかん坊になる氣配が濃厚だが、いつも機嫌がいい。
「ママ。」「ママ?」「ママー!」「マンマーーーっ!!」と、全ての言語を「ママ」一語で押し通し、それでもコミュニケーションを成り立たせる凄腕の幼児。

そんな娘と孫達と、わたしはしばしば遊びに出かける。

先日一緒に行ったのは、横浜の三ツ沢にある「なんじゃもんじゃカフェ」。
人氣があるため、外で30分ほど待ったが、ぐずることもなくちゃんと大人しく待っている。
流石だ、我が孫達よ。

ツリーハウスがカフェになっていて、まるで宮崎駿の世界。

                 IMG_2601_convert_20170619143353.jpg


 IMG_2599_convert_20170619143335.jpg

                           IMG_2621_convert_20170619143501.jpg

カフェの中はロフトがあり、レトロな雰囲氣のテーブル席が2つ、風通しのよいテラス席が3つあって横浜の中心街が見渡せる。

IMG_2616_convert_20170619143429.jpg

風が木を揺らしていく音が聞こえ、時間がゆっくり流れていく。
うっとりと景色を眺める孫。

総じて鑑みるに、孫達はいつも機嫌よく満たされている感じがする。
わたしの娘と息子は、わたし達夫婦の仕事の関係で常に手元には置いていたが、生活が不規則で、なかなか子どもの生活のサイクルに寄り添ってあげることができなかった。

待遇のいい企業で働いていた娘に、専業主婦になったらどうかと提案したのも、その悔いがあったからだった。
娘は学生時代に演劇を始め、大学時代にやはり演劇に没頭しているムスコ(娘の夫)と知り合って結婚し、子どもを授かった。
経済的には不安があったようだが、結局仕事を辞め、子育てと家事に専念した。
幸せそうな孫達を見ていると、娘達の選択は間違っていなかったと思う。

娘夫婦は孫達をコンサートに連れて行ったり、舞台に連れて行ったりして、小さいうちに出来るだけたくさんの「よいもの」に触れさせようとし、自分達も一緒に楽しんでいる。

そして美しいものを見たり聴いたりした思い出は、嬉しかったり楽しかったりした感情の記憶とともに、柔らかい孫の感性の中にしっかりと刻み付けられているようだ。

そんな孫達を「おー、よちよち」と猫可愛がりするのはとっても楽しい。
責任のないべたべたの可愛がり方ができるのはジジババの特権だ。

対して、いい大人になっている娘や息子に、未だに小言を言ってしまうわたし。
つい親として「このままではイカン!なんとかせねばっ」と、考えてしまうのだ。
こういう所が、親が「ウザイ」「うるさい」「メンドクサイ」と言われる所以だと、自覚する今日この頃。

だが娘が躾のために孫を叱っていると「そんなにうるさく言わなくてもいいのにねえ。よちよち。」と、婆バカ丸出しで甘やかしてしまうのは、いかんともしがたい。
しいて言えば、親戚の家の可愛い子犬を可愛がるのと、自分の家で飼っているワンコに対する態度の差か。

自分の家のワンコは、トイレの躾はしなければならないし、嫌がってもお風呂に入れなきゃならないし、叱ってでも吠え癖や噛み癖をなくさなきゃならない。
お金だってたくさんかかるし、死ぬまで面倒をみる覚悟が必要だ。
かかわり方が全く違うのだから、対する態度が全く違っても仕方がないのだ。
そして猫可愛がりしてくれる存在があるっていうのも、いいものなんだよ。

許せ、娘よ。

可愛い孫達よ。
世界は佳きもの、美しいもので溢れている。
存分にその中に身を浸して、味わい尽くして欲しい。

でも長い人生、順風満帆ばかりはあり得ない。
恐ろしいほど理不尽な目に遭ったり、目を背けたくなるほど醜いものが目に入ったりすることもあるかもしれないけれど、「人間万事塞翁が馬」。

人間も世界も状況も、常に変わるものだから大丈夫。
心配しないで人生を思い切り楽しんだらいいよ。

孫達のことを考えていると、日月神示の『子孫(うみのこ)の弥栄(いやさか)継ぎに栄えしめ給えと畏(かしこ)み畏みも白す』という祝詞の文言が頭に浮かぶ。

日月神示だけではない。
古来より神社で唱えられる多くの祝詞で、必ず子孫繁栄祈願の句が述べられるのは、子孫繁栄が往古から代々の祖先等を経て継承されてきた先人の最大の眼目であったからだ。

孫ができて初めて、先人達の氣持ちが本当に分かったような氣がする。
この世での役割が終わって肉体が滅び、あちらの世界に行ったとしても、我が愛する子孫達に手を差し伸べ、身を挺して守りたいと。

今の日本の状況を見ていると「どうかこの国が我々の子孫(うみのこ)にとってよき世界になりますように」と祈らずにはいられない。

つづく
プロフィール

マキおかん

Author:マキおかん
気が付いたらキャンプ場をやっていたマキおかんです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR