サヨナラ、恩着せがま子と恩着せがま男

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

我が家では恩着せがましい女を「恩着せがま子」、男を「恩着せがま男」と呼ぶ。
例えば、ふんどし息子が「いつも美味しいお酒が飲めるだろ。俺のお陰で。」とか言ってきた場合、「うわー、恩着せがま男になってるよー。」と返すというような使い方をする。

人は誰かに何かをやってもらって心から感謝していても、恩着せがましくされた途端、あーら不思議、感謝の氣持ちが忽ち雲散霧消してしまうのは何故だろう。

しかもそんなことは重々分かっているのに、つい「○○をやってあげたのに」と思ってしまい、あまつさえ口に出したりほのめかしたりしてしまうのはどうした訳か。

こんなことを書いているのも、最近ふんどし息子とケンカした際、「恩着せ合戦」になることが多いから。

「料理をしてあげたんだから、もっと感想をちゃんと言ってくれよ(感謝しろよ)」
「ありがとうって言ったじゃん。ママだって食器洗ってあげてるし(こっちにも感謝しろ)」
「そんなこと言ったらオレだってマキオカで薪作ってあげたじゃん(そっちこそ感謝しろ)」
「それ、言っちゃう?そんなこと言うんだったら、こっちだって言っちゃうよ?・・・(以下省略)」
などと、「感謝してほしい欲」が両者共に炸裂。
バカバカしい口喧嘩が延々と続くことになる。

ああ、愚かなり。がま子とがま男・・。
まあ、頭では分かっちゃいるんですよ。下らないって。

【恩着せがましくなる人の心理 - カウンセリングサービス心理学講座】によると
『「自分の苦労が報われていない。」「あんなにがんばったのに、正当に評価されていない。」「私のしたことをわかってくれていない。」など、承認欲求が満たされていないと、恩着せがましくなることがあります。自己承認が苦手で、周囲に認めてもらおうと自分を主張しがちです。』

そう、なんか認めてもらいたいんですよ!
何故だか知らないけど。

『「してやった」「やってやった」という言葉を翻訳すると、「私はあなたのために○○してあげたのに、あなたは私のために△△してくれていない。」という否定や要求の表現になります。そんな言い方をしたら人から嫌がられるのに、それでも恩着せがましくしてしまう背景には、次のような心理が考えられます。
ひとつは、過去の行為(恩義)を盾にとって相手を支配し、自分の思い通りにコントロールしようとする心理です』
『恩着せがましい人は、実は「お願い下手」です。素直に頼めない、かわいく甘えられない、頭を下げてお願いできない、といった傾向があります』

心当たりがあり過ぎて、イタイ・・。

『もう一つは、「認められたい」「褒められたい」「感謝してほしい」といった承認欲求です。この承認欲求は誰もが持っています。
私達は他者からの承認を受けて、自分自身を承認するようになっていきます。
そして、自己承認ができるようになると、他者からの承認の有無に気持ちが左右されなくなります。
ところが、恩着せがましくなる人は、自己承認が苦手なようです。』
『承認欲求を自分で充足できないので、常に外側に承認を求めようとします。繰り返し「褒めて。褒めて。褒めて。褒めて…。」としていると、人からは邪険に扱われます。だから、絶対に承認を得られる出来事を「○○してやった」と振りかざすようになっていきます』

人から褒められたいけど、いい大人がそんなこと露骨に言えないし邪険に扱われたくないから、恩に着せちゃって承認欲求を満たそうとするのね。
なんだか悲しい・・・。

『恩を着せられたと感じる時、私達は「あなたのせいでこんなに大変だった。」と言われているように理解しがちです。まるで相手から埋め合わせを要求されているように感じることや、自分を否定しなければいけないように感じることが不快の元になっています』

いいじゃん。
もー、メンドクサイからテキトーに承認欲求満たしてあげれば!

『では、恩着せがましい人に対して、認めたり、褒めたり、感謝したりしていれば恩着せがましくなくなるかというと、残念ながらあまり変わらない場合もあります。
本人が承認を受けとめる状態を作らないと、承認欲求はなかなか満たされていかないようです』

            ∑(!? ̄Д ̄)゚Д゚)・д・) エェーッ!!
変わらないんかいっ!!

「恩着せがましくされた」と感じる側に問題がある場合も。

『自己否定がある人や「相手に要求されている」と感じやすいタイプの人は、相手の何気ない言葉が恩着せがましく聞こえやすいようです。』
『恩を着せられる側は、交換条件になっていない見返りを求められたり、過去の弱みに付け込んで奪われたりする態度に感じるので、不快になります。無力感や罪悪感を刺激されるので、「頼んでしてもらったわけじゃない!」「自分でできるならば、自分でしていた!」「何回も同じことを言わないで!」と反発を感じたりもします』

ああ、どこかで聞いたような(または言った)セリフが並んでる・・・。

要は、恩着せがましくなるのって「自分の苦労が報われていない」「あんなにがんばったのに、正当に評価されていない」「わたしのしたことをわかってくれていない」と、承認欲求が満たされていないタイプが陥りがちなのね。
それに対して、自己否定がある人や「相手に要求されている」と感じやすいタイプの人は、相手が一切恩に着せるつもりがなくて言ったことでも、恩を着せられているように聞こえてしまうことがあるってことらしい。

『恩を着せられる方は嫌ですけれど、恩を着せている人の心の中には、ずっと満たされない寂しさや切なさ・虚しさがあるのかもしれません』

うーむ。
がま子やがま男は心の中で「寂しいんだよぅ。もっと優しくしておくれよぉ。いい子いい子して欲しいんじゃあ!」と、叫んでいるのね。

『相手を変えようとしたり、無視しようとしたりして心の中で葛藤せず、軽く流せばいい』なんて書いてあったが、それは無理というもの。
がま子やがま男の毒は、関係が近ければ近いほど、聞いている側の理性的な仮面をはぎ取ってしまうので、よほどの手練れでないと、がま子やがま男を氣持ちよくさせてあげるセリフは断じて言いたくなくなってしまう。

恩着せの感染力は半端ない。
「恩に着せるなんて下品」と言っていた人も、相手に恩を着せられた途端、ムクムクと「わたしだって○○してあげた」などという氣持ちが沸き上がり、知らず知らずのうちにがま子やがま男になってしまう。
オソロシヤ。

さらに、がま子やがま男が親だったりすると、思っている以上の悪影響が出る場合も。

親になり、平常心の時は「親って、子どもによって育てられる部分あるよね。」「子どもって3歳までに一生分の恩返しをするんだって」などとキレイごとを言えていても、いざ子どもが逆らったり口答えしたりすると「あんなに○○してあげたのに!」と言いたくなるもの。

ある教育学者は言う。
『親は自分のやることに、自分で意義を感じることができないので、"おまえのために"と、子どもに恩着せがましくなる。
そのことで子どもの人格は親に吸収されてしまう。つまり子どもも自立できなくなる。
幼い子どもは親にそういうわれると、感謝せざるを得なくなる。親がいないと子どもは生きていけないからだ』
『恩着せがましい親に育てられた子どもは、親の期待に背くことは怖い。親は子どもに感謝を要求している。
でも、そういう子どもは結局自立することなく、依存しているために他の人の行動や顔色をうかがうことばかりをして、自分の行動の結果で幸福になることは決してない』
『そして"こんなによくしてやってるのに"という、親に感謝を期待されている子どもは、自分が不幸と感じることを、禁止されている』

「子どもの人格は親に吸収されてしまう」「自分の行動の結果で幸福になることは決してない」「自分が不幸と感じることを、禁止されている」って・・・。
幼い頃は親の言うことをまともに受けてしまい、口答えできるようになるまで時間がかかる。
ツラ過ぎるよぅ。

そして、がま子やがま男を嫌悪していた子どもは、成長して同じがま子やがま男になっていく。

恩着せは連鎖する。

「人間は『「してもらったこと』の35倍多く『してあげたこと』を覚えている」という。
35倍って、あんた・・・。
してもらったことは生涯忘れるな」なんて立派なセリフがあるのも、それを実行するのがどれだけ難しいかってことの証明なのかも。

イカーーン!
断じて、がま子やがま男になっちゃイッカーーーン!!
と、我が身を顧みて叫ぶわたし。

それはともかく。

日本には『恩送り』という素敵な言葉がある。
受けた恩を誰か別の人に送り、その人がまた別の人に渡すことで恩がぐるぐると世の中を回ることをいう。

江戸時代には「恩送り」という言葉が日常的に使われていたんだそう。
受けた恩を誰かに手渡すことで互いに生かされ支え合う社会って、とても成熟していてカッコイイ。

恩を感じるしなやかな感性を磨き、受けた行為に感謝し、謙虚な氣持ちで受けた恩を世の中に返したいもの。

わたしはここに高らかに宣言したい!!
「サヨナラ、恩着せがま子」と。

まずは「○○してあげた」「○○してやった」という言葉から卒業だ!

その時、ふんどし息子の声が。
「ねえ、ここにあったシャツ、知らない?」
「脱ぎっぱなしだったから洗濯してあげたよ。」
「それ、今日着て行こうと思ってたのに」
「なによ、せっかく洗濯してやったのに!」

嗚呼、言うは易く行うは難し。

「恩を感じるしなやかな感性」だの「受けた行為に感謝する謙虚な氣持ち」からは程遠い我が身を恥じ、うなだれるわたしなのでした。

つづく
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大嶽山那賀都神社の奥宮の動画がスバラシイ!

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

わたしの崇敬する大嶽山那賀都神社。

このブログでも何度かご紹介させていただいているが、大弛峠(標高2450m)から 「国師ヶ岳」 (2592m) に登り、そこから道なき道を行くと、剣のそそり立つ奥宮に着く。(国師ヶ岳の頂上から左下を遠く望むと、小さく尖ったオベリスクのような頂上が見える)

10年ほど前に初めて参拝させて頂いた際、詳しいことを何も知らず、何の心の準備もなく、うかうかと登ってしまい、一切人を寄せ付けない神域の凄まじい様子に驚愕した。

「もしここで遭難したら命はないな」とか「熊や蜂に遭遇したらどうしよう」「雷に打たれるのでは?」という恐怖と闘いながら深い原生林をかいくぐり、巨大な花崗岩群にしがみついて進まなければ辿り着かない。
さらに、同行した親戚の女の子がご神氣にあてられたかのように、氣持ち悪くなってしまい、とてもビビった。

一昨年、幕を新調し祠の整備をするために、宮司の日原先生ご夫妻を含む9名で登らせて頂いた際は、あの当時の「ここ数年、人が訪れたことがないのでは?そしてここは人があまり来てはいけないところなのでは?」という荒々しく畏れ多い雰囲氣が消え、神々しくも柔らかい眼差しに包まれているかのような氣配の中、氣持ちよく参拝させて頂けた。

大嶽山那賀都神社の元宮(奥宮)に行ってきた(3)

やはり、ご一緒させて頂いた方々のご人徳によるものであろうか。

そして昨日、「神々の庭」という動画の中で、大嶽山那賀都神社の奥宮がアップされていることを知り、さっそく拝見させて頂いた。
とても素晴らしいので、シェアさせて頂く。



「奥宮に登拝することが出来た。当日は空が明るみ始める頃からの山行となった。天候は有難く快晴となり、素晴らしい青空の下での奥宮登拝となった。国師ヶ岳から西沢渓谷方面へ少し下ると、天狗尾根の分岐点がある。そこから更に高低差100m程下るのだが、大きな岩が多く、体全体を使いながら下って行く。前方には霊峰富士を望み、天狗岩が見える。
岩の頂上には、霊剣が大空へ向けて真っ直ぐ立っており、天高く伸びるその姿は見るものを魅了する。絶景に思わず溜息がもれた。神恩感謝、世界平和を祈り、無事に参拝を終えることが出来た。」との文章が追記されている。

スバラシイじゃないですかあ!

音楽も映像も文句なくかっこいい!!
まさに「神々の庭」。

神様もさぞやお喜びだと思う。

が、老婆心ながら危惧が一つ。
あの猛々しいまでの巨石群や命の危険を感じてしまうほどの行程は、今一つ伝わらないかもしれない。
もし、この素晴らしい映像をご覧になって「ここに行ってみよう」と思い立った方、清浄な氣を乱さぬようにお願いします。

そして、ホントに危ないですからくれぐれもお氣を付けくださいね。
普通の山道と勘違いして舐めてかかったら、かつてのわたしのように後悔しちゃうかもしれません。

そして自己責任でお願いします!
ホント、危ないですからねっ!!


※おまけ
今年の大嶽山那賀都神社の奉納オカリナコンサートは、盛会のうち無事終わりました。
わたしは仕事のため、駐車場の見回りくらいしかできませんでしたが、去年の倍くらいのお客様がいらしてくださったようです。

本当にありがとうございました!

つづく

夏のコワい話

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

一昨日、マキオカから無事帰宅しました。
いやー、今年の夏は雨が多くてまいった、まいった。
わたしのような季節労働者やイベントを催す方、農家の方々にとっては、ツライ夏でありました。

マキオカネイチャークラブは、雨天でもキャンプを楽しんで頂けるよう予備のタープやテント、ゲーム類をご用意しているのですが、お客様の「星空を見たかった」とか「青空の下でブランコに乗りたかったな」という心の声が伝わってきて、残念な氣持ちでいっぱいになる。

「雨には雨のキャンプのよさがある」と思おうとしても(確かに雲海のようなロケーションが楽しめる)、しょせん負け惜しみの感が免れない氣がする・・・。
「マキオカネイチャークラブに行ったのに雨でガッカリだった」という感想をお持ちの方、是非ともリベンジをしに来てくださいね。
お待ちしています!

それはともかく。

久し振りに鎌倉に帰ると、まず掃除をする。
ふんどし息子も彼なりに頑張ってはいるが、流しの中や洗面所はドロドロだし、棚は埃で白くなっている。
シーツを洗濯しアイロンをかけ、やっと一息。
お菓子と飲み物を用意し、テレビの前に寝転がり、(我が家にはアンテナがないのでアマゾンプライムやAbemaTVを)ぼんやりと観る。

あー、シアワセ。

夏といえば「恐怖映像」や「怪談話」。
今年の夏は忙しくて、全く観ていない。
暇に任せて、ネットで探して観てみる。

こういうのって、ほとんどが作り物だという。
本物ばかりを流しちゃうとよくないんだそう。

「くっだらなーい。これ、完全に作ってるよね。怖がらせようっていう意識が透けて見えるんじゃっ!大体なんで何もない日常を、ビデオで撮影してるワケ?」などと、お菓子を食べながら訳知り顔で独り言を言う。

昔はけっこう真に受けてキャーキャー言ってた癖に。
女子と小人は養い難し、ですな。

とはいえ、中にはヤバイ本物も混ざっている時があるらしい。

我が家にも恐怖体験(?)がある。
あれは30年ほど前のこと。

鎌倉の夫の実家に行き、夜10時くらいに当時住んでいた横浜に帰るために車に乗った。
まだ1歳だった長女が寝てしまったので、後ろに寝かせ、わたしは助手席に乗ってドアを閉めた。

主人が細い裏道を運転しながら、あるお屋敷の前で呟いた。
「そういえば、この家は知り合いの子どもの家なんだ。僕が学生時代に子ども達をキャンプに連れて行くバイトしていた時に知り合ったんだけどね。とても懐いてくれて家に遊びに来たこともある。交通事故で死んじゃったけどね」
言葉が終わるか終わらないうちに、突然、車のルームライトが点いた。

何事かと夫を見ると、心なしか青ざめ、運転席側のドアを押さえながら運転している。
「どうしたの?」と声をかけると「今、急にドアが開いた」と答えた。

なんで?
わたしは確かにしっかりとドアを閉める音を聞いた。
半ドアではなかったと思う。
よしんば半ドアだったとしてもあのタイミングで、なぜ?

車を停め、顔を見合わせる。
緊張をほぐそうと「今、ここにその子がいたりして。後ろの座席が濡れてたりなんかして」と、引きつった笑顔で後部座席の下に手を伸ばすと。

うそ。
濡れてる?!

何か湿った感触がし、思わず手を引っ込めるわたし。
暗闇の中、夫としばし無言で後ろを見つめる。

「と、取りあえず帰ろう!!」
「そ、そだね。」
何かを振り切るように帰宅したわたし達。

・・・ま、あの湿ったモノは娘の濡れたオムツだったんですが。

それはそうと。

先日、娘からわたしの書いたブログの話を読み「ゾッとした」と言われた。
酒の失敗(2)

知人にその話をすると「ご家族ならゾッとするでしょうね」としみじみと言われました。
とほほ。

そうね。
子どもの頃は鬼才楳図かずおの「へび女」を読み、トイレに行けなかった。
美内すずえの「白い影法師」は、読んでいた本を放り出すくらいコワかった。

それから幾年月。
少女はおばさんになり、世界も変わった。

今では幽霊が頑張ってウロウロしていたとしても、老眼で氣が付かないんじゃなかろうか。
「霊の存在がコワいと言っても、誰しも逝く道だから天に唾を吐くようなもの。自分に返ってくるだけ」ということも分かってきた。

しかも、あんまり怖がると、わたしのような面白がりの霊は「もっと楽しませたいっ」と、発奮する可能性もある。

そして、霊に取り憑かれたとしても、すぐどうこうなるわけではなさそう。
同じ「直ちに影響はない」ものでも、放射能や食品添加物や農薬の方が物理的に影響を受ける分、よっぽどコワい。

年を取ると、若い時と違ったコワいものができる。

今のわたしは「ダブルブッキング」とか「トレーラー水浸し」とか「お客様がいる時の雷」「井戸のポンプの故障」の方が、よっぽどコワい。
さらに言えば、自分や身近な家族や友人の病や死の方が。

が、今はコワいと思っている諸々の出来事も、人生が過ぎてしまえばなんということもなくなるのは自明の理。

最期を迎える時、漫画を読んでトイレに行けないほど怖がっていた自分も、素敵な殿方の前で酔っぱらってパンツ姿になって寝てしまった話を聞きゾッとした自分も、親しい人たちとの別れに怯えた自分も、懐かしくいとおしく感じるようになるのであろうなあ、と思うわたしなのでした。

つづく

今までコメントをくださった方々へ。

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

一昨日、マキオカから鎌倉に帰宅して用事を済ませ、やっと一息をつきながらパソコンをいじっていた。
わたしはとにかく機械類(パソコンもひとくくりに「機械」と言ってしまうのも、機械オンチのおばさんの特徴)が、大の苦手。

でもブログを書き始めてもう5年。
最近はブログを書いたりアップする手順で間違えることはなくなった…と思っていた。

この「マキオカのネイチャーな日々」は、アメブロ、FC2、ナチュログにアップしている。
(「何で?」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、なんとなくブログをやっているうちにそうなってしまい、止めることができずにいる)

暇だったので、アメブロの「コメント管理」をチェックしてみる。
「公開済み」と「承認待ち」とあり、いつも「公開済み」が白くなっている。
いつもはそこをいじることはないのだが、何氣なく「承認待ち」をクリックしてみると。

あれ?
「承認待ち」が白くなった。

ここって、クリックできたのね。
初めて知った・・。

すると、何といくつかのコメントが出てきたではないか。
過去に遡って操作してみると、やはりいくつかコメントが現れた。

うそ・・。
こんなに(といってもそんな数はないけど)コメントをくださった方がいたのね。
ありがたしっ!

こんなわたしの書き散らした雑文にコメントをくださるなんて、きっと心優しい方々に違いない。
なのに、わたしは・・。

ネットを始めた頃、あるブロガーにコメントを送ったのに返信コメントを戴けず「そういうもんなのね」と思いつつ、淋しい氣持ちになったことを思い出す。

うっうっうっ。
ホント、申し訳ないよう。

無視したワケじゃ、ないんです。
「公開済み」と「承認待ち」の部分の使い方を知らなかっただけなんです。
そして、読者の方からコメントが来たらメールで知らせてもらえると思って(確か以前そんな設定にした)、あまりチェックしてなかっただけなんです。

そんなこと言っても言い訳にしか聞こえないと思いますが。
確かに言い訳なんですが。

ホントにごめんなさいっ。
申し訳ありませんでしたっ!

感涙にむせびながら、読ませて頂きました。
コメントを書いてくださって、ありがとうございました!!

そういえば、つい先日、FC2 でも同じことがあった。

いつもは管理画面の「ブログ拍手」という項目はチェックしないのだが、何となくクリックしてみたら。
何と「拍手コメント」というものがあり、同じ方がいくつか素敵なコメントをくださっていた。

わたしったら何の返信コメントもせず、放置していたのね。

「ガン無視されてる」って、思われたことでしょう。
せっかく温かいコメントをくださったのに。

でも、違うんです。
「拍手コメント」なんて、存在自体知らなかったんです。

バカバカバカッ。
わたしのバカッ。

ようく叱っておきますので、何卒ご容赦のほどお願いいたします。

それにしても。

「あんなくだらないブログを書いてるくせに、コメントに返信もしないとは!もう読まないけんねっ」と思われて、この文章も読んで頂けず、お詫びが届かない方もいらっしゃるかもしれないと思うと、とっても悲しい・・。

そして、今までの人生、氣が付かないけど他にも何かやらかしてやしないかと思うと(いや、絶対やらかしてるね)、ちょっとゾッとしてお腹が痛くなるわたしなのでした。

つづく

神代文字の話(4)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

今までのわたしの文章を読みながら「まったくこれだから思い込みの強いおばさんは。『皮膚に神代文字を書いただけで不調の症状が消える』なんてこと、あるワケないだろ。バカがっ!」と、せせら笑ったあなた。

先ずは以下の文章をお読みください。

古代文字は存在した①

『日本の古代に文字があったとする状況証拠です。
写真は1991年にイタリア・オーストリア国境付近にあるアルプスの氷河から奇跡的な保存状態で発見されたミイラです。
約5000年前の人体だそうですが、身体の15箇所に刺青がなされており、現代の鍼灸師に見せたところ、胃腸や腰痛といったツボの位置であり、実際レントゲンを撮ってみたところこのアイスマンが腰痛持ちだったことが判明したのです。
この刺青は線で構成された単純な幾何学模様が書かれていたのです。
ところが今現在に千葉県の松戸市で気功療法と鍼灸院をされている片野貴夫さんがこの方法で治療を実施されているのです。
最初は気功や鍼や灸で治療されていたのですが、あるひらめきから古代文字をツボに書くことによって鍼をうつ以上の効果が見られたのです。
研究と実践から古代文字でも治療効果のレベルに雲泥の差がでることも分かってきました。
また、別の古代研究者によると古代の日本人は渡航技術も優れていて、渡航するときには文字を身体に刺青して出ていたとする研究者もいるのです。
古代文字は単に意味を伝える道具だけではなかったと考えるほうが自然なようです。』

片野先生は時々このミイラ(アイスマンと呼ばれているらしい)のことを例に出し、「古代人は文字にエネルギーが集まることを知っていて、それを健康法に役立てていた」「手術などが簡単にできなかった時代、神代文字を使うのが古代日本人の健康法だった」と仰る。

最先端科学の量子物理学が発見した「物質の最小単位は波動(エネルギー)である」という考え方。
実は古代人がすでに看破している。

天津(あまつ)祝詞の初めの部分 「極微実相元源仕界」(ごくびじっそうげんげんしかい)とは、極めて小さいものがすべての実態であり、世界の始まりから病気の原因までがその極微の物質(今でいうソマチッドですな)の仕事である、と。

この世に存在するもの、見えるものすべてには、すべて固有の振動数を発している。
文字も書けば形あるものになるし、言葉も振動するから聞こえる。
古代の人は、この文字や祝詞を使って体を治癒(言霊治癒)していたのではないか。

片野先生は、長年、氣功、氣功治療、太極拳を実践・指導してきた中で、「神代文字は病氣の予防や治療に使えるのだ」ということを確信し、それ以降、神代文字治療の道が始まったらしい。
そして「あわ歌、ひふみ祝詞を唱えながら、頭の中に古代文字を浮かべると不調が解消する」と確信した。

神代文字も神聖幾何学などのシンボルと一緒で、描くとそこにエネルギーが集まるという考え方で、文字を氣功と組み合わせて治療していく片野先生の施術方法は、口で説明してもなかなか伝わるものではないかもしれない。 

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荒唐無稽に思われるこんな治療を編み出した片野先生。
一言でいうと、天才ですな。
いや、マジで。

天才は人に理解されにくい。
頭で考えたいうよりは、閃きと直観でこの治療法を編み出し、さらに進化を続けているようだ。

「文字と言葉と形と数で身体は健康になります。」と言い切る片野先生。
一見「アクの強いおっちゃん」の風貌(失礼)の片野先生だが、知識の深さ、おしみなく与える姿勢、率直さに脱帽する。

そして神代文字の不思議を探求すべく、わたしもふんどし息子と共に、今年から片野先生の教室に通い始めた。

それはそうと。

縄文直系・宇宙エネルギーの叡智である 古代文字。
是非あやかりたいと龍体文字のフトマニ図を、我がふんどし息子の鍼灸治療院の玄関に額装して飾りました。

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                           IMG_2004_convert_20170323141132.jpg


おお、かっこいい!(自画自賛)
きっとその宇宙エネルギーで、いらっしゃるお客様をよくしてくれるに違いない。

そのうちふんどし息子の治療院でも、「おまじない」として神代文字の治療を取り入れたいらしいので、乞うご期待。
 
みち鍼灸治療院


つづく
プロフィール

マキおかん

Author:マキおかん
気が付いたらキャンプ場をやっていたマキおかんです。

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