夫の18回目の命日とふんどし息子(2)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

いよいよ夫が最期の時を迎えた瞬間、「え、パパ、死んじゃうの?」と驚いたように叫んだふんどし息子。
今度はわたしが驚く番だった。

わたしは息子が今の状況を分かっているとばかり思い込んでいた。
夜、急に病院に呼び出され、廊下には親族が集まり、ICUの前でひそひそと暗い顔で会話を交わしていた。
さらに集中治療室の中にも息子は一緒に入り、酸素マスクをしている夫の姿も見ていた。

だからことさら説明なんかしなくても理解しているとばかり思っていたのだが、実際は違った。
親の言うことをひたすら信じ、真に受けていた息子にとって、どんなものを見聞きしても、父親が亡くなるなんてありえないことだったのだ。

確かに主人が検査入院する時、わたしは息子に言った。
「パパは少ししたら良くなって帰ってくるよ」

息子は単純にその言葉をひたすら信じ、待っていた。
「親がそう言ったんだからよくなるんだ」と無邪氣に思い込んでいた。

飼い主の帰りを待ちわびる子猫のように。
愚直なまでに真面目に、真っすぐに。

主人が亡くなってから6年ほど経ち、夫の亡くなった前後の話を笑いながらできるようになったある日、当時の思い出話を家族でしていた時のこと。

「いやー、でもあの状況なら普通分かっていると思うよね。あのタイミングで『え、パパ、死んじゃうの?』って言い出したからびっくりした」と、わたしが言うと「そうだよね。普通分かるよね」と、娘。
「そんなの、わかるワケないだろ。死ぬなんて全く思っていないんだから。絶対帰ってくるとばかり思い込んでたんだから!」と、ふんどし息子が怒りながら言った。
「ま、お姉ちゃんもサンタを中学生まで信じてたしね。さすが姉弟だね」と、笑ってこの会話は終わった。

が。
この時の会話でも、ふんどし息子はいたく傷ついたらしい。

そして「父親は帰ってくる」と思い込んでいたふんどし息子は、どうやら無意識のうち、何年経っても父親を待っていたらしいのだ。
待って、待って、待ちくたびれて、寂しさと悔しさに打ちのめされた息子は、いつまでも帰ってこない父親に「許さないぞ」と思うようになっていた。
いつまでたっても帰ってこないご主人に、寂しさのあまり拗ねて爪を立てる可哀想な子猫のように。

主人が亡くなってから、いろいろなことが津波のように押し寄せた。

同居していた義母とは当初仲良く暮らしていたが、借金癖のある嫁のせいで容赦ない取り立てが会社にまで来ることに悩んだ義兄に土下座され、義母は年金を担保に入れ借金をしようとした。
以前から義母のなけなしの老後の貯金をむしりとるように借りに来た義姉だった。
そのお金が返済されることはほとんどなかった。

義兄と世間体を大事にする義母は、さらに家を売ってお金を捻出しようと考え、わたし達に家を出て行ってほしいと言い出した。
義姉を嫌っていた義母であったが、頼りになる次男がいなくなった今、拠り所になるのは夫の兄である長男だけになってしまったようだった。

同居したのは、夫を亡くした義母に懇願されたことがきっかけだった。
若いころから義父に守られ、仕事を持ったこともなく、誰かしらに頼っていないと不安でしょうがない義母。
心細がる義母のため横浜のマンションを売り、夫の実家のある鎌倉で暮らすことにしたのだった。

だからそうそう簡単に家を出るわけにはいかなかったし、「できるだけパパが生きている時と同じ生活をしよう」と子ども達に言っていたわたしに、頷けるはずもなかった。
しかも年金を担保にお金を借りようとするなんて、理解の域を超えていた。
氣が狂っているとしか思えなかった。

義母をも守っているつもりでいたわたしに、ある日突然地方裁判所から通知が届いた。
同居している義母が原告になり、わたしを訴えたのだった。

驚きあきれ「なぜ家裁じゃなくて地裁なんですか?」と尋ねるわたしに「家裁で相談したら『お嫁さん、可哀そうじゃないですか』って言われたから地裁に持って行ったの」と義母は答えた。

原告である義母達は弁護士を立てたが、そんなお金も人脈もなかったわたしは、調べながら自力で答弁書を書き上げた。
ヤケクソになり、「どうせだったら楽しまにゃイカン!」とパソコンに向かい、娘や息子には包み隠さず話すようにした。
(娘はこの時「ケッケッケ」とにやつきながら答弁書を書いていたわたしの姿をはっきりと「覚えているそうな)

結局裁判は地裁から家裁に移され(そりゃそうです。隣の案件は殺人でした)調停は進み、子ども達の精神状態を守るためにも、わたしは引っ越しを考え始めた。

この頃、義兄は切羽詰まっているようだった。
わたし達を追い出し、早く現金が欲しいらしかった。
それにはわたしが邪魔であり、目の上のタンコブのようなものだった。
時に声を張り上げわたし達の部屋に押し入ろうとしたため、わたしが「警察を呼びます!」と声を荒げる場面もあった。
義姉も義母も見てみないふりをしていた。

「弟が生きているんならともかく、いないんだからすぐに出て行け」というのが彼の主張だった。
修羅場の中でも「一流の大学を出てきちんとした企業に勤めていても、この人は愚かで可哀そうな人だな」と、目を吊り上げて叫ぶ義兄の顔をぼんやりと見ているわたしがいた。

義兄や義母の話を真に受けた親族から親族会議と称するものに呼び出され、10人近くに囲まれ迫られたこともあった。
主人の生前「(義母の面倒を)よく見てくれてありがとう」と言ってくれていた人達だった。
血のつながる主人が亡くなった今、彼らの中でわたしは「夫の実家に居座り続ける金目当ての嫁」になっていた。

人間の見方や価値観なんて一瞬で変わる。
当てにできないものだな、と心底思った。

その一部始終を見ていた娘は過呼吸になった。
義母の杖を突くコツコツという音を聞くと、症状が出るようだった。

息子もダメージを相当受けていた。

自分を一番可愛がっているはずの優しいおばあちゃんが、父親を亡くしたばかりの自分達に「出て行ってくれないかしら」と、謳うような口調で自分の母親に迫り、優しいと思っていた親戚達が掌を返したように態度を変えたのだから。。

時々猛烈な腹痛を訴え、病院に連れて行くと小学生でありながら痔になっていた。(こんな場面でも何故かオカシミのあるふんどし息子)

もう迷っている時間はなかった。
この家にいても「パパが生きている時と同じ生活」はできるはずもなかった。
わたしは引っ越し代だけ請求し、主人の実家を引っ越すことにした。

引っ越しが決まったころ、原告側の弁護士と連絡を取る必要があり、電話をした。
相手側の弁護士ということもあり、我が家では「ぬらりひょん」と命名し、嫌っていた。

話の切れ間に「いやー、僕も酷い目に遭いましたよ」と言って、自分に起きた出来事を語りだした。
どうやら仕事上裁判の経緯を知ったぬらりひょんは、原告側の弁護士でありながら、被告であるわたしに少々同情してくれたらしい。
経緯はわからないが、そのことを察知した義母や義兄達が、わたしとぬらりひょんの関係を疑ったとのこと。

?!
思わず爆笑してしまったわたし。

いやー、お氣の毒。
何が悲しくて弁護士ともあろうものが、被告のおばさんとそんな関係にならんといかんのじゃ。
・・・それはそれでちょっと面白いけど。

どう考えたらそんなゲスイ発想できるんですかね?
ろくに話したこともないのに、いったいいつ、どうやったらそんな関係になれるんですかね?

是非、教えて頂きたい。
そしてわたしってそんな凄腕未亡人に見られたってことなんですかね。

世間知らずで料理好きだった義母は、その後、義兄家族と同居したがうまくいかず老人ホームに身を寄せ、そこで亡くなったと人づてに聞いた。
弱くて可哀想な人だった。
年を重ねた今であれば、もっと義母の氣持ちに寄り添えたかもしれない、と思う。

まあ、これ以外にもわたし自身も過呼吸になってしまうような出来事が、雨アラレのようにいろいろありました。
疾風怒濤の日々でした。

「一匹狂うと百匹狂う」はホントですな。
こうして何かあると「命取られるわけじゃなし」とうそぶくような、したたかでしぶといおばさんが出来上がったワケで。

それはともかく。

昨夜、ふんどし息子と話をしていて、驚いた。
「救急車が来た時、自分は学校に行っていた」と思い込んでいたからだ。

10歳の息子にとって、記憶の改竄をせざるを得ないような、ブランクアウトしてしまうような、あまりにショックな出来事だったのだと、改めて感じた。

そうだよね。
パパが大好きだったもんね。
皆でたくさん思い出を作ったよね。

でもあれから18年経って、自分の心を冷静に見ることができるようになった君がいる。
君の中の「待ちくたびれて怒り出してしまった10歳の君」に伝えてほしい。

お別れをちゃんと言わせてあげなくてごめんね。
心の準備をさせてあげられなくて、悪かったね。
急に大事な人がいなくなってしまって、つらかったね。

寂しかったね。
悲しかったね。
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でも、あれから君は頑張って、乗り越えて行くんだよ。
少し時間はかかるけれど。

そして自分の手で、重くて軋む扉を開けて、大人になる。

涙を拭いて、自分を信じて頑張れ、ふんどし息子!!

つづく

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夫の18回目の命日とふんどし息子(1)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

昨日は夫の18回目の命日だったので、朝8時頃ふんどし息子と建長寺でお墓参りをし、甘いものが好きだった夫を偲びつつ、大町の老舗和菓子屋「大くに」で麩菓子やらワッフルやら大福を買い、お供えをしました。

3日ほど前のこと、お風呂から出てきたふんどし息子が「オレが恨んでたの、オヤジだった」と呟いた。

実はふんどし息子、以前から「許さないよ」という口癖があり、大人になって、ふと「オレ、いったい誰を許せないんだろう」と思い始めたらしい。
数週間前にわたしがアクセスバーズというヒーリングセラピーをやってあげた際、その施術の中で「(ふんどし息子が)許せないのは誰か」という問いをし、「いつかその答えが下りてくるから」と話していた。

その答えが入浴中、突然下りてきたのだという。
それが、本人が思ってもみなかった「18年前に亡くなったオヤジ」だったので、大変驚いたらしい。

主人が亡くなった時、ふんどし息子は小5、娘は高1だった。
二人で学習塾を営み、合間にマキオカネイチャークラブを作っていたわたし達の生活は根底からひっくり返り、ここぞとばかりに噴出した人生の荒波に揉みしだかれ、わたしは育ち盛りの子どもを抱え、茫然と立ち尽くすばかりだった。

が、立ち尽くしてばかりはいられない。
わたし達は生きていかなければならなかった。
子ども達に「パパが生きている時と同じ」生活をさせてあげたかった。

最初に主人の異変に気が付いたのは2000年6月くらいだった。
半年前ぐらいから「指先が痺れる」と言って「手根管症候群」と診断を受けていた主人が、マキオカで水を引いていた沢に黒パイの様子を見に行った後、苦しそうに胸を押さえていた。
ダイエットもしていないのに体重が減ってきたので心配になり、7月に病院に行き白血病の疑いがあると言われた。
8月に検査入院し、やっと月末に結果が出た。

「アミロイドーシス」という難病だった。
「アミロイド」と呼ばれる蛋白が全身の臓器の細胞外に沈着する疾患で、日本では特定疾患に指定されていた。

「明日亡くなるかもしれないし、10年後になるかもしれません。この先の予後はまったくわかりません」
病院の白い会議室で、年配のドクターが病状の説明をしてくれた。
隣に座っていた研修医が氣の毒そうにわたしから目を逸らしていた。

夫にはドクターから話してもらうよう頼み、わたしも同席した。
説明を聞く夫の顔が、みるみる紙のように白くなった。
二人になった時、一緒に泣いた。

夫婦で「この先どうなるかわからないのであれば、家族にはまだ話すのはやめよう」「後悔のないよう好きなことをできるだけやろう」と、話し合った。
マキオカが大好きな夫は、しょっちゅう病院を抜け出しマキオカに泊まりに行った。
11月に入り家族でサイパン旅行をし、亡くなる3日前に帰国した。

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サイパンで夫はふんどし息子に「しっかりしろ!」と、何度も言った。
これから言えなくなるであろう分まで、何度も繰り返した。

10日の夜、仕事から帰ると、家の前に救急車が停まっていた。
胸がドキンとなり家に駆けこむと、玄関先に主人が座り込み、救急隊員が取り囲んでいた。
苦しくなった夫が娘に救急車を呼ぶように頼んだのだという。
娘に救急車に同乗するように指示し、不安そうにしている息子は同居していた義母と留守番するように告げ、わたしは車で救急車の後をついていった。
出がけに夫は義母に「おかあちゃん、ごめん」という精一杯の言葉を残した。

救急病院で入院手続きをし、娘を帰宅させ、わたしは処置室の主人に付き添った。
呼吸が苦しそうだったが「大丈夫。付いてるからね。一緒に頑張ろう」と言いながら、手を握るしかできなかった。

病院のトイレの中で、泣きながら「頑張れ、わたし」と繰り返し呟き、折れそうになる自分を励ました。
経営していた学習塾の生徒達のご家庭にも連絡しなければならなかった。

ドクターと相談し、万が一を考え、翌日救急車で湘南鎌倉総合病院に転送して頂いた。
主人の意識はしっかりしていたが、夕方ドクターから「ICUに移って頂きます。ご家族を呼んだ方がいいと思います」と告げられた。

ふんどし息子、娘、義母を友人に連れてきてもらい、主人の兄家族、わたしの親にも連絡した。
ドラマのように、ICUの前の廊下に親族が集まっていた。

お別れは近づいていた。

親族が少人数づつICUに入り、手を握ったり、言葉をかけた。
わたし達家族も何度かICUに入れてもらい、主人の様子を見せてもらった。
酸素マスクをつけられ、体には何本も管が付けられていた。

わたしの身内には帰ってもらい、義母、ふんどし息子、娘、主人の兄家族が待合室に、まんじりともせず座っていた。

わたしはこの時、氣づかなければいけなかったのだ。
ふんどし息子の様子に。

この状況で、ふんどし息子は従兄とゲームで遊んでいた。
「少し寝ていいよ」と言われ、長椅子でウトウトと寝ていた。

主人の心音が弱くなり心臓マッサージが行われ始めた。
ドクターに別室に呼ばれ「今、ご主人は水の中で溺れているのと同じ苦しい状態です。どうなさいますか?」と聞かれ「楽にしてあげてください」と答えた。
最期の時間、家族皆が主人のベッドを取り囲み、手を取ったり声をかけたりし出した。

その時、初めてふんどし息子がハッとした顔をして「え、パパ、死んじゃうの?」と驚いたように叫んだ。

え?
わかってなかったの?

つづく

デニス・バンクス氏を悼む(2)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

ワークショップで話している最中に、つかつかと真っすぐわたしの前に来て、横に座り肩を抱き、写真を撮れというポーズをしたデニス。
いったい何が起こっているのか分からず呆然とするわたし。

わたしが年若く魅力的だったり、人目を引くような美人というのなら分かる。
もしくは懐かしい知己であったのならば。
が、残念ながらわたしはデニスとは初対面の、どう贔屓目に見てもただのおばさん・・・。

帰宅して、早速今日あった謎の出来事を写真とともにFBに書き込んだ。
コメント欄にはデニスを知っている人達からの文章が並ぶ。

「単に好みの女性だったとか?」
「ポッ●ャリ系が好きなんですよ」
「素敵なハプニング♪きっと同じ波動を感じられたのでしょうね。魂友的なツーショット♪」
「凄い!きっと感じたんでしょうね、まきオカンさんの力強い波動。いいなぁ~。」
「 そりゃあ、美人さんだったのと、慈悲のオーラが見えたのでは。。笑。」
「そんなことが!!すごい^^ しかもカッコイイ♪ 大きな手だなあ~」
「凄い経験されましたね!」等々。

確かに、デニスは京マチ子の大ファンらしいですが。
そういえば京マチ子もポッ●ャリ系・・・。

それはともかく。

わたしにはネイティブアメリカン達が遭った民族存亡の危機が、今の日本人にかぶって見えて仕方がない。
わたし達が先祖から受け継いだ文化や祈りや哲学や信仰は、今や風前の灯だ。

違いといえば「囚われている鎖が見えるか見えないか」「強制されてると感じるか、自分の意志でしていると感じているか」だけ。

デニス達は自分たちが不当な扱いを受けていることを痛いほど知っていた。
先祖伝来の文化を継承できないことを心から悲しみ、力を合わせ合衆国権力に対抗するインディアンの運動組織の構想を練ることができた。

が、わたし達日本人の大多数は見えない鎖は「ないもの」として、認識している。

「ないもの」と戦えるはずもなく、また戦う必要などない。
もし近い将来、日本民族が消えたとしてもそれは自然の成り行きだ。
抗うことなどできない運命であり、じたばたしても仕方がない。

デニスは5歳の時、両親から引き離され、寄宿学校で米国の文化を強制された。
親たちは泣きながら見送らざるを得ず、子ども達は逃亡を企てたという。

今の日本の学校は、我が国の文化や哲学、信仰を教えることはない。
そんな学校に親たちは子ども達を無条件に嬉々として通わせる。
それが立派な社会人にすることだと信じて疑わない。
大多数の子ども達は、先生や学校の言うことは正しいことだと盲信し、教育によって、異議を唱えることはいけないことだと認識するようになる。
逃亡を企てた子どもは社会不適合者の烙印を押される。

わたし達はネイティブアメリカン達のように戦う必要などない。
だってわたし達は自由なのだから。
強制など、何もされていないのだから。
素晴らしい民主主義によって、すべて自分たちで選択してきたのだから。

果たしてそうだろうか。

我々の周りには目に見える鎖はない。
だから一見するとどこにでも自由に行け、好きなようにふるまえ、未来を選べると錯覚している。

平和的に自然と共生していた楽園で暮らしていたネイティブアメリカンのホピ族は、居留地の山からウラン鉱石が採取できることがわかると、いきなり欧州人に西部開拓の名目で武力占領された。
そして放射線被曝の危険を一切告げられず、鉱山で働かされ続けた。

一方、江戸時代、世界最高の生活水準で世界の奇跡といわれた日本は、広島、長崎に原爆を落とされ、氣がつくと54基もの原子力発電所に囲まれていた。
さらに東日本大震災により16000人近くが死亡し、福島で発生した炉心溶融など一連の放射性物質の放出をともなった原子力事故で炉内燃料のほぼ全量が溶解するという最悪の事故を経験をし、放射能汚染に苦しんでいる。

報道されない奇形児やガン、白血病などを発症しつつ、未だになす術もなく原発を動かし続けている日本。
しかもこれも自分たちの選択だという。

「我々は7代先の子ども達のために、今何をしなければならないか考えて行動する。今の日本は、マックなどファーストフード、化学物質いっぱいの食品、薬害、放射能を撒き散らす原発、遺伝子組み換え食品等々、我々インディアンよりも悲惨な状況になりつつあるのに、誰も立ち上がらない。」とデニスは言った。

そう、わたし達は立ち上がる術を知らない。
徐々に熱され、熱湯になった時にはもはや跳躍する力を失い、飛び上がることができずにゆで上がってしまう可哀そうなゆでガエルのように。

デニスの自伝と映画のタイトルの「死ぬには良い日」は、英語で“A GOOD DAY TO DIE”という。
73年2月6日、サウスダコタ州カスターで起こったインディアン殺害事件の抗議行動決議のときのデニスの有名なスピーチで発せられた言葉だ。
元々インディアンの言葉であり「悔いのないよう一日を精一杯生きていれば、今日が死ぬ日が良い日になる」という意味だという。

わたし達日本人は青空を見上げながら「死ぬには良い日だ」と呟けるだろうか。
戦いもせず、同胞達に悲しみの叫び声を上げさせてはいないだろうか。

デニスについて書こうと決め、娘に「(ワークショップ中のデニスの行動は)いったい何だったんだろう?」と話していたら「そういえばママ、前にブログで前世ネイティブアメリカンだったって言われたって書いてなかったっけ?」と言った。

あ、そういえばそんなことが。
Fukucha(福茶)のスピリチュアルカウンセリングに行ってきた(2)

Fukucha(福茶)さんという方のスピリチュアルカウンセリングを受けた際、マキオカネイチャークラブに「とてもいいオーラが集まっているのが見える」「木霊とか精霊が多い場所」と言われた。
さらに「(マキオカネイチャークラブは)土地の精霊とかと繋がる場所で聖地に近い」「元々ネイティブアメリカンの過去世を持った人達が集まっている」などと言われ、調子に乗ったわたしは「そんじゃ『マキオカネイティブアメリカンの集い』を作ってみるかっ!」と思い立ち、今年7月「マキオカネイティブアメリカンの集い」をマキオカネイチャークラブで開き、ティピィで楽しい一夜を過ごしたのだった。

ディジュリドゥと法螺貝が響く不思議な集いには蛍やミヤマクワガタが姿を現した。
この地に生まれ育った人が40年の間、ここで一度も蛍を見たことがないと言うのに。
「マキオカネイティブアメリカンの集い」の聖なる夜

でもデニスとお会いしたのは3年も前のことで、その時はもちろん自分がネイティブアメリカンと縁があるかも、などとは微塵も思わなかった。

もしかしたら、デニスはわたしからネイティブアメリカンの匂いを嗅いだのかもしれない。
今にして思えば、その不思議な能力で、この日が来ることを知っていたのかもしれない。
そんな現実離れした妄想をしてしまう。

デニスは何度も日本を訪れ、非常に多くの親しい友人知人がいるようだ。
たった一度しかお会いしたことのないわたしのようなものがデニスについて書くのは僭越のそしりを免れないか、とも思う。

だが、そのたった一度の出会いは、わたしに強烈な印象を残した。

なぜあの時、話の途中を遮ってわたしに写真を撮るように勧めてくれたか、デニスに聞くことはもう叶わない。
精一杯戦った伝説のネイティブアメリカンの戦士であり勇者のデニス・バンクスは、天国であの不敵な笑顔で言っているだろう。
“It's your turn!”と。

つづく

デニス・バンクス氏を悼む(1)

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

デニス・バンクスが亡くなった。

『【ニューヨーク共同】米先住民運動の指導者で、1973年にサウスダコタ州ウンデッドニー武装占拠を主導したデニス・バンクス氏が29日、米中西部ミネソタ州ロチェスターの病院で肺炎のため死去した。80歳。
米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)が30日、報じた。
37年、ミネソタ州リーチレークの先住民居住区出身。
5歳で両親から引き離され、寄宿学校で米国の文化を強制された。
地元で就職できず米空軍に入隊し、日本駐留時に日本人女性と結婚したが、無許可欠勤で逮捕され帰国。強盗事件を起こし、服役した際に民族意識に目覚めた。
「聖なる魂」「死ぬには良い日だ」などの著書がある。』

わたしがデニスを知ったのはFBだった。
つながっているFBFの何人かがデニスの来日、活動を時々アップしていた。
とはいえ、それほど詳しく知っているわけでもなく「アメリカでのインディアン運動を創設した主要メンバーで、北米大陸を祈りと共に、ホピの予言や祈りや哲学や信仰など、ネイティブのメッセージを伝えながら歩いて横断した人」といった程度の認識。

そんな折、鎌倉で行われた『アメリカインディアンの生きる権利を守った伝説のインディアンDennis Banks のGathering 「自ら動き出す勇気!自分たちに何が出来るのか?“It's our turn!”」』というワークショップがあるというので、2014年12月、生デニスを見るべく、のこのこ出かけて行ったのだった。

ワークショップの会場は会議室だった。
部屋に入ると頼りになりそうな目力のあるかっこいいオヤジが座っていた。
それが伝説のインディアン、デニス・バンクスだった。
魅力ある不敵な面構えをしていた。

参加者は40名ほどいただろうか。
まずDennis Banks ドキュメンタリー映画Nowa Cumig / The drum will never stop(ナワカミッグ/インディアンドラムは鳴り止まず)を観た。

そこでわたしは知らなかったアメリカの暗い一側面を知ることとなる。

白人社会の人種差別と暴力にさらされ、ささいな理由で刑務所に送られ保留地の保留を打ち切られ、絶滅的危機にあった全米のインディアン部族。
インディアンたちは極貧の生活の中、路頭に迷うこととなった。
そして幼いインディアン達は無理やり親と引き離され、強制収容されたインディアン寄宿学校でインディアンとしての文化や祈りや哲学や信仰を奪われた。
1968年、インディアンとしてのアイディンティティーを取り戻そうという新しいインディアン権利運動団体の第一回結成式を開催した際、「今こそインディアンは立ち上がる時だ」との一時間にわたって演説を行い、会場が湧き返らせたのはデニスその人だった。

ミネソタ州のインディアン保留地での漁猟狩猟権利を巡って(当時、州ではインディアンにのみ「狩猟法」が適用され、「密猟罪」の対象とされる一方、白人は自由に狩りや釣りをすることができた)リーチレイク保留地からの「白人及び非インディアンの立ち退き」を要求して抗議行進を決行した。
1973年の「ウンデッド・ニー占拠事件では、AIMと支援者がウンデット・ニーの一角を占拠し、インディアン管理局、FBI、州政府、米軍、私兵組織を相手に、71日間にわたる武力攻防となって全米を震撼させる事件を起こす。
その時も100人近いインディアンが殺された。
まさにアメリカインディアンは、民族存亡の危機にあったのである。

デニス・バンクスはこの民族浄化の動きに対し、サンフランシスコのアルカトラズ島からワシントンD.C.まで、徒歩で大陸横断する「ロンゲスト・ウォーク」(最長の徒歩)を提案し、全会一致で採択された。
1978年2月実行された「ロンゲスト・ウォーク」(最長の徒歩)は、インディアンだけでなく黒人や白人、東洋人、世界中の民族、平和団体が参加した。
聖なるパイプを掲げ太鼓を携えた宗教的行進でもあったこの行進は5ヶ月に及び、4000人に参加者を増やした。
この平和的行進は全米の反響を呼び、多数の上下院議員らの賛同を得て、「インディアン絶滅法案」を廃絶に追い込んだ。

映画が終わり明かりが点くと、まさに命懸けでネイティブアメリカンの文化を守った英雄が、目の前で微笑んでいた。
生きてきた軌跡がその表情から窺えるような、皴のひとつひとつに生き様が滲み出ているような笑顔だった。

その後、わたし達は車座になって通訳を交えながらデニスの話を聞いた。
白人社会と戦ったネイティブの歴史、原子力の危険性、今の日本、福島のこと。

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デニスの声は魅力的だった。
正直言えば、わたしは話の内容よりも、目の前にいる英雄の表情を見逃すまいとしていた。

命懸けの戦いや「ロンゲスト・ウォーク」の後、懲役刑を言い渡され一年半の服役するなど、デニス・バンクスはまさに百戦錬磨のネイティブアメリカンの戦士だった。

と。
何を思ったか、デニスは話の途中で突然椅子から立ち上がり、車座の方に歩を進めた。
通訳を務めていた人も、話を聞き入っていた人も、一瞬何が起こったか分からず、デニスの行動に注視した。
デニスは、つかつかと真っすぐわたしの前に来て、隣に座ったかと思うと、肩を抱いて写真を撮れというポーズをしたのだった。

「ど、どうしたんだ、Dennis!」という皆のドン引きの表情。
デニス以外の人たちの頭に「???」が浮かんでいる。
もちろんわたしの頭にも。

一瞬何が起こったか、理解できないでいたわたし。

はっ!
このチャンスを逃しちゃイカン!!

慌てて隣のお姉さんにカメラを渡し、写真を撮ってもらった。

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デニスは満足氣に元の席に戻っていった。

わたしの頭は今起こった謎の出来事で、グルグルと渦巻いていた。

あれはいったいなんだったのだろう?
もしや死んだばーさんに似てたとか?
それとも、わたしの後ろにアメリカインディアンの霊でも見えたのか?

そうなのか?!Dennis。

つづく

塩山の「塩の山」はピラミッドだった?

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

今週も週末は雨。
うちは先週、今週とお客様のご予約がなくて助かりましたが、日本中の観光・飲食に携わる方々を代表して言いたい。

殺す氣かっ!!

んもう。
稼ぎ時の秋の観光シーズンの週末に、何だって毎週氣持ちを萎えさせるような、辛氣臭い天氣になるワケ?
こんな天氣じゃお金使う氣なんか、失せちゃうじゃないですかあ!

うちなんて、冬の間は休業してるんですよ?
4月から11月いっぱいまでに日銭を稼がなきゃ、生活できないんですよ?
老後の貯えだって、ないんですよ?(またそれか、の声あり)

自分でキリギリス的な生活を選んだとはいえ、キリギリスにだって生きる権利はあるっ。

それはともかく。

暇に任せて、以前から氣になっていた「日本のピラミッド」について調べてみる。

「ピラミッド」といえば エジプトのものが有名だけど、実は世界各地に似たような建造物が存在している。
そしてよく知られている「あの四角錐がエネルギーを集める形状として最適である」という説、「宇宙人から造り方を教わった」という説以外にも、「日本がピラミッドの発祥であり世界各地に広がった」という、トンデモの最高峰といえるような説があるんですぞ。

なんでも日本のピラミッドは、石を積み上げるエジプトのものと違い、あからさまな人工物ではなく、山のように見えるんだとか。
日本は元々自然が多く地形的に山が多いので、手を加えるのが最低限でよかったとも言われている。
調査によって、山のように見えるが実はかなり人の手が加わったものだったとわかった場所もある。

そんな面白い話、わたしが食いつかないワケないじゃないですかあ!

ネットで調べると「ここは日本のピラミッドだ!」と、いろいろな場所が載っている。
ふむふむ、秋田県鹿角市にある「黒又山」、広島県にある「葦嶽山(あしたけやま)」、富山県の「尖山(とがりやま)」。
おお、長野市にある皆神山、奈良県の三輪山など、わたしが行ったところもある!

正統竹内文書によると、建造する技術を持つスメル族の一部がメソポタミアから古代エジプトに渡り、そこで日本をルーツとする「飛来御堂(ヒライミドウ)」、すなわちピラミッドを造ったという口伝があるという。

「飛来御堂」って。
か、かっこいい。

字面を見ただけでも明らかにUFOだけど。
ヒライミドウ、ヒライミドウ、ヒライミドウ・・・ピラミッド。
ダジャレかっ。

それはそうと。

マキオカネイチャークラブに向かう際、わたしは勝沼インターを下り塩山市内を通るのだが、この話を知って以来、目の前に現れる「塩の山」がピラミッドに見えて仕方がない。
「塩の山」は標高552m。標高差150m、山頂まで30分ほどのかわいらしい山。
遊歩道もきちんと整備されている。

              塩の山


もちろん登ってみましたとも、3年ほど前に。

小さな山ながら 千年以上前の平安時代の和歌「しほの山 さしでの磯に住む千鳥 君が御代をば 八千代とぞ鳴く」との石碑が佇んでいる。

「塩の山」について、いろいろ調べていらっしゃるサイトがあるので、参考にさせて頂く。

塩の山レポート「聖地としての証明」
塩山、塩ノ山はピラミッドか?!

日本のピラミッドの定義は
①整然とした三角形の山であること。自然・人工を問わない。
②頂上付近に丸い太陽石とそれを取り巻く環状の列石がある。
③本体とは別に遥拝するための拝殿がある。
であるという。

ひとつひとつ検証してみよう。

①整然とした三角形の山であること。自然・人工を問わない。
塩の山は観る方角で形を変えるらしい。
塩山駅方面から見るとピラミット型(わたしがいつも見ているのはコレ)、北東から見 るとスフィンクス型、上空から見ると勾玉のようにも見え、武田家千野城跡 から見ると富士山と同じ台形型にも観えるという。

うーむ、これはちょっと当てはまらないなあ。
取りあえず△。

②頂上付近に丸い太陽石とそれを取り巻く環状の列石がある。
塩の山の頂上付近には東屋があって、市民の皆さんが憩えるようになっている。
もちろん丸い太陽石とそれを取り巻く環状の列石なんて見当たらなかった。

が、もう少し広く目を向ければ状況は一変する。

『塩の山を中心に見たとき、北東に【裂石】と言う真っ二つに割れた磐座があり、北西には【大石神社】と言う小山に大小多数の裂けた磐座があり、南西には【石森山】と言う小山に、巨大な裂けたドルメンが多数ある磐座が存在し、そのどこからも【塩の山】が見えるのです。 まさに塩の山は、それらの、似通った磐座の中心に存在して何かの機能をはたしていた可能性を感じます』

塩の山の周囲には磐座というにふさわしい巨石がゴロゴロ存在する。
わたしも実際に大石神社、石森山に行った際、「街中にこんな巨石が?」と驚いた。

『塩の山を中心に三角形に取り囲む、巨石のサークル(裂石、石森山、大石山)は、その昔には水晶で覆われ光り輝いていたという伝説もあるようです』

『大菩薩峠の尾根上にある巨石が塩ノ山を囲むように位置しているのにびっくりしてしまったのだ。そして斜面の所々に見える巨石も当然ながら塩ノ山に向いている』

うん、これはわたし的には◎だな。

③本体とは別に遥拝するための拝殿がある。
これは正直よくわからない。
ただ周辺には、南西に向嶽寺、鈴宮神社、南に菅田天神社、北東に飛大(飛の宮)神社、北に飛び石という磐座がある。
このうちのどれかが拝殿だったのか?

さらに『北西に5キロ程行った三富小学校前に飛尾神社と言う境内に直形3mほどの石舞台がある神社も存在し、伝承によると[その昔、北の山からその大岩だけが飛んで来た]と言う話も残る、まさに【飛ぶ】と言うキーワードに囲まれた【塩の山】なのです 』ともある。

飛大神宮(とびのみや)?
飛尾神社?
飛び石?

塩の山上空はUFO出現ポイントであり、近くの安道寺遺跡からは宇宙人顔の土偶も出土しているんだそう。

うーむ、匂いますぞ。
トンデモの匂いがプンプンする。
これも◎。

もちろん「塩の山はピラミッドか?」なんて、結論など出るわけもない。
それに「ホントかウソか」なんてどうでもいいの。

だってわたしは最近、社会の常識と思っていたことがひっくり返った経験をイヤというほどしてるから。
「学説」とか「科学的」というものに、いかにインチキが横行していることか。
「世の中ってトンデモだらけじゃん!」と言いたくなることがしばしば。

例えば「塩の山」という名前の由来。
甲州市観光協会のサイトには「「四方から見える山」の意で「しほうのやま」が「しおのやま」と呼ばれるようになったと考えられます」なんて、もっともらしく書いてある。

ホントか?
「考えられます」って、誰が考えたの?
皆、誰が考えたか知らないこの通説を伝言ゲームのように真に受けているけれど。

実は「シオンの山」が「塩の山」になったのかも知れないじゃん?
・・・あ、皆さんの「このヒト、だいぶトンデモ菌にやられちゃったんじゃ?」という憐れみと疑いのマナザシが痛いほど感じられたからこの辺にしとこ。

雨が小降りになった窓の向こうに、塩の山の上空に輝くいくつもの球体を遥拝所から恍惚と眺める縄文の民が見えたような氣がした。

つづく
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マキおかん

Author:マキおかん
気が付いたらキャンプ場をやっていたマキおかんです。

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